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  プロローグ  

 ある日、僕は異世界へとやってきた。
 小説や映画なんかではそう珍しくもない光景だ。しかし、僕は物語の主人公になるほど特徴ある人間ではないし、ヒーローというには地味に過ぎた。平凡な毎日に飽き飽きしていて、でも、それを変えるような度胸も行動力もない、そんな人間だった。
 そんな人間に、まさかこんなことがあるとは思ってもみなかった。
 僕は平凡な毎日を送っていたし、このまま何事もない、普通という型にはまった人生を送るんだろうと思っていた。それは少しだけ精彩に欠けていたけれど、僕と言う人間には相応しい未来のように思えた。
 悪くない。
 ああ、悪くないさ。普通でいいよ。普通で上等。平凡、平穏、最高じゃないか。
 話は変わるのだけれど、僕の両親は喫茶店を経営している。寂れかけた町の隅っこにある、小さな店だ。隠れた名店といえば聞こえはいいが、単に繁盛していないだけとも言えた。だけど、やってくるお客さんは誰もが個性的で、賑やかな毎日だったように思う。
 じーちゃんが始めたというその店は、もちろん古い。壁には流れた時間の分だけ染みや汚れがあったし、カウンターやテーブルは僕よりも長生きで貫禄があった。
 カウンターの向こう側で、父さんが自慢のブレンドコーヒーを入れている。年齢と容貌が比例していない母さんが、無駄にフリフリのついた制服を着てコーヒーを運んでいる。店の奥のテーブル席で、じーちゃんが豆腐屋の玄さんとチェスをやっている。
 そんな、探せばどこにでもあるような、小さな喫茶店だ。
 僕はこの喫茶店が気に入っていた。そこに流れる、ゆったりとした時間が好きだった。僕を急かす時代の流れってやつも、この店の中にだけは入ってこれないようだった。
 だから、僕はもちろんこの店を継ぐつもりだった。料理の作り方や、コーヒーの淹れ方。仕入れのノウハウや、営業スマイルの作り方。女の子の口説き方や、カッコの付け方。多少おかしい部分もあったが、そんなことをじーちゃんや父さん、そしてやってくるいろんなお客さんから学んでいた。
 こんな風に生きていくんだろう。僕はそう思っていた。
 じーちゃんや父さんがそう生きてきたように、僕もこの店と一緒に歳を重ねていくんだろう。平凡な恋をして、平凡な家庭をもって、平凡な日々を過ごして。そして、じーちゃんや父さんのように、この喫茶店を引き継いでいく。
 そんなことを考えていた矢先だった。
 ある日の学校帰りだ。
 その日、悪友の悪戯に巻き込まれたせいで、帰りが遅くなっていた。空は真っ赤に染まっていて、空の端にはもう夜の闇が見えていた。不思議と人通りもなく、まるで世界が動きを止めたような空間だった。不意に、僕の足下から地面が消えた。マンホールに落ちるように、僕は黒い穴へと飲み込まれていった。
 僕がやってきたのは、異世界だ。
 ファンタジー小説をそのまま具現化させたような、そんな世界だ。
 魔法が存在するし、人間以外の種族だっている。魔物がうじゃうじゃといる<迷宮>とやらがあって、その迷宮を囲むように作られた都市に、僕は住んでいる。
 あれから2年が経った。15歳を迎えたばかりだった僕は、気づけばもう17歳。時の流れは実に早い。
 いきなり異世界に放り出されたわりに、よくあるご都合主義というのはなかった。なんかすごい力があったわけでもなく。選ばれた勇者でござるとか、そんな話も見つからず。お前を召喚したのはわしじゃ、とかいう人もいなかった。物語らしい物語が始まる予兆も全くない。
 至って普通の一般人である僕は、異世界でも至って普通の一般人だった。なんで異世界に来たのか、まったく意味が分からない。これが神さまの仕業なら、神さまは何をしたかったのだろうか。酔った勢いでとか、手違いでとか。たぶんそんな感じじゃないだろうか。
 ここ2年で調べた限りでは僕がもう帰れないことは明確らしいので、こっちで平凡に暮らすことに決めた。そうするしかなかった。
 この店から2区画先には<迷宮>へと続く門がある。そこから先は、きっと素晴らしいファンタジーなのだろう。目の前の通りを左に3区画いったあたりに、冒険者<ミスト>の登録や、クエストなんかを扱う<ギルド>という組織がある。ここもきっとファンタジーなのだろう。他にも例を挙げれば両手を折り返しても足りないくらいだが、まあ、僕には全く関係のないことであるからして。
 ここは異世界で、実にファンタジーに富んだ設定に溢れていた。冒険者になって一攫千金とか、命を懸けた<迷宮>探索の中で美少女と出会うとか。ゲーム的にいえばフラグがあちこちに存在するものの、特に興味がないのでどうでもいい。僕は平穏が好きなのである。人外の化物と殺し合いとか、正直、勘弁なのである。こちとらただの学生だったのだ。今さら化物退治とか無理です。
 そんなわけで、魔法とか魔物とか、そういうのとは一切の関わりを絶ち、せっかくの異世界だけど特に変わったことをするでもなく。
 僕は至って普通に、平穏に生きるために。
 喫茶店を、やっているわけでありまして。
 この話は、なんてことのない話だ。
 僕の喫茶店に来るちょっと変わったお客さんと、平穏大好きな僕の、平凡な毎日の話だ。断っておくが、魔物とか正直いらないし、迷宮とか行く気もないし、美少女とかもどうせイケメンと仲良くやるんだろう。そんな僕の毎日は、本当に普通なのである。不本意なことに、ときにはそうじゃなくなることもあるけれど。それでも、平穏を目指しているのである。
 それでも構わないという平穏好きな人は、暇潰しにでも僕の話に付き合って頂ければ幸いだ。コーヒーでも傍に置いて、いつも背中を押してくる時間の流れってやつを無視する心意気で、まったりぐだぐだしてほしい。
 さて、思いのほか前置きが長くなったけど、そろそろ開店の準備をしよう。
 平穏を愛し、平穏を望む喫茶店「ハルシオン」
 本日も開店である。
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