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  ゲームだって、人生だって、最後は体力勝負なのである  


 ボクは今、喫茶店とかいう妙な店にいた。義父の話によれば、ここには愛想のないおじいさんがやっている古い酒場があるはずだった。けれど、いざ来てみれば、そこにあったのは「喫茶店」とかいう店だったのだ。
 喫茶店……というのは、よく分からない。「ハルシオン」という店名も聞き覚えのない言葉だけど、店そのものがよくわからない。
 分類するのであれば、休憩所……だろうか。広いとは言えないまでも、妙に落ち着く店内を見回しながら、そう思う。老若を問わず、男性よりも女性客が多いが、各々がケーキや飲み物を傍らにゆったりとした時間を過ごしていた。
 この店に来て、驚いたことがふたつある。
 ひとつ目は、店主がボクとそう変わらない歳だということ。
 カウンターに立ち、白い布でコップを磨いているのは、青年と少年の中間ぐらいの男の人だ。この街の男の人は大抵ががっしりした体型だったけれど、彼はまるで女の子のようにほっそりとしていた。顔もどちらかと言えば綺麗な方だ。悪く言ってしまうと、軟弱……なのかな。
 しかし、彼は店をひとりで切り盛りしているのだろうか?
 家族の姿は見えないし、店員のひとりさえいなかった。
 注文は運ばれてくるのではなく、呼ばれたときに自分で取りにいったくらいだ。今日だけそうしている、というよりも、そういう仕様らしい。観察する限り、常連のお客さんは注文したものができるまではカウンター席に座って、あの少年や他のお客さんと世間話を交わし、それから自分の好きな席へと移動しているようだった。
 二つ目……これは、ボクの目的に関わるものだった。
 というのも、ボクは義父の言う愛想のないおじいさんに会いに来たのだ。目的は、義父をもってして「最強」と言わしめたほどのチェスの強者に会いたかった。それだけだ。
 ボクはチェス棋士をやっている。といっても、大会などに参加するような正式なものではなくて、貴族同士が行う一種の賭けチェス。その代指しを行っているのだ。
 貴族が行うそれは、一歩路地裏に入ればどこでも見られるような賭けチェスとは違う。
 何が、といえば、賭けの規模だ。それは神々の遺産<ミスティア>であったり、女であったり、桁の違った金銭であったり、あるいは、その命であったり。貴族が行う賭けチェスは、知能の遊戯ではなく、命を賭けた勝負だった。故に、それは真剣<デュール>と呼ばれ、ボクのように貴族に雇われて代指しをする人間を真剣師<デューラー>と呼ぶ。
 勝つことだけが求められ、負けてしまえばそれまで。命を賭けているのは、貴族というよりはボクたち真剣師だろう。まあ、どのみち、ボクにはそれ以外に生きていく方法もない。せいぜいが娼館に身を売って、薄汚い男たちに体をまかせるくらいか。
 ―――もうすぐ、ボクは戦場に立つ。盤上で行われる、小さな戦争だ。なんの重みもないチェスではなく、貴族の荷物を背負い、自分の命を賭けてチェスをする。自分の実力に不安があるというわけではない。けれど、自分がどのレベルにいるのかは知っておきたかった。
 孤児を拾っては真剣師に育て上げるのが義父の仕事だった。ゆえに、彼もまたチェスは強い。けれど、それは底が見える強さだった。ボクはまだ勝てない。けれど、遠くない日に勝てるだろう。そんなレベルだ。
 ボクが望むのは、絶対の強者との戦いだった。
 どこまで追っても先が見えない。どんなに潜っても底がない。どうやっても勝てない。どうやっても負ける。そんな相手に、負けておきたかった。
 それは、一種の予防策だった。真剣師になっても、ボクはまだひよっ子だ。真剣<デュール>は、ただチェスが強ければいいというわけではない。崖を背にしたギリギリの淵に立ち、盤上で命をやりとりする。もちろん、いきなりそんな荷の重い仕事が任されるわけはない。けれど、いつかはそんな場所に立つことになるだろう。だからこそ、早いうちに味わっておきたかった。絶対の敗北の予感。勝てるわけがないと囁く自分の声。一度知っていれば、二度目は耐えられるかもしれない。三度目は打ち破れるかもしれない。そんなことを考えて。
 けれど、いざ来てみれば、あったのは喫茶店。いるのは男の子。
 早々に目論見が無駄になり、肩を落とした。せめて何か情報でも聞けないものかと思ったのだけれど……ひどく予想外のことが起こった。
 店にやってきた男性が、テーブルにチェス盤を置くと同時に叫んだ。
「おい、マスター! 今日も勝負だ!」
 あまりに唐突なことで呆然としていたボクだが、マスターと呼ばれた少年はなんでもないように口を開いた。
「じゃあ、初手はd4で」
 それから、時間はあまり経っていない。
 けれど、マスターと呼ばれた少年には充分な時間だったらしい。チェス盤の上の小さな戦争は、すでに勝敗が見えていた。
「ぐぐぅ……Bd7!」
 先が読めていないのか、認めたくないのか。髪を短く刈り上げた男性が、半ば叫ぶように駒を動かす。
「Re5」
 対して、少年はまるで紙に書かれたことを読み上げるようだった。今まで、少年は一度も長考していない。相手の手にタイムラグなしで次手を指している。
 そのことだけでも実力は伺えたが、それよりも重要なことがあった。彼は一度も盤面を見ていないのだ。一瞥すらなく、山のように積まれたコップを磨きながら、片手間にチェスを指している。
 もちろん、チェスに親しんだ者であれば不可能ではない。ある程度の実力者であれば誰でもできるだろう。だが、盤面も見ず、考える時間も置かずに、この腕前。ただの実力者というには、言葉が足りない。
 少年の手に、男性がいくらか逡巡してから駒を動かす。
「Qb4!」
「Bd3」
 白陣に剣を向けたクイーンによって、やがて少年のルークは落ちる。けれど、少年はやはり迷いなくルークを捨て、ビショップを下げた。クイーンがどう暴れたところで、それよりも早く、男性のキングは死ぬ。クイーンの突撃は、ただの悪あがきに過ぎない手だった。
 自暴自棄にも見える男性の手は相手にもされず、少年は正確に敵のキングを追い詰めていく。そして終局。
「……また、負けた」
 喉元に剣を突きつけられた自陣のキングを見つめながら、男性はばたりとテーブルに突っ伏した。それほど悔しかったのか、それともなにか重要なものでも賭けていたのだろうか。
 それはまあ、どうでもいい。
 むしろ、重要なのは少年の指した一連の手だった。
 というのも、チェスの序盤戦には定石というものがある。より効率的に、より自然に、できるだけ自分の有利になるように指してゆく、定まった流れだ。最初に動かすことのできる駒は多いが、勝つことを優先的に考えるのであれば動かす駒は決まってくるし、どう構えるかも形式的になる。
 けれど、少年の指した定石は本などでは見たことがないものだった。それが正式な定石なのかさえ分からない。
 序盤の構え方や駒の運びはもちろん、中盤戦における駒の動き。緩手のように見えて、後々に生きてくる配置取り。ためらいもなく駒を犠牲にしたかと思えば、次の瞬間にはそれ以上の優位を得ている。最初はまるで冷戦かと思うほどに静かで防御的な棋風だったが、相手がミスを犯したかと思えば一変、嵐のような激しさでそこを攻めたてる。
 本や、名の売れたチェス棋士の対局でも見たことがない……いや、ひとつひとつを持つ人はいる。激しい攻撃、穏やかな防御、優位を見切る目。
 けれど、そう、少年はそれら全てを持っているのだ。一流と呼ばれる人たちが何十年と掛けて身に付けたものを、その片鱗をあの歳で合わせ持っている。
 ―――面白い。すごく、面白い。
 予測できない。勝てるのか負けるのか。底があるのかないのか。わからない。指してみなければ、わからない。
 無駄足だったかとも思ったが、そうでもないようだ。こんなに面白い人がいるのだから。
 ボクは席を立った。
 なにやら他の客に慰められている男性のテーブルまで行き、盤外に並んだ駒を乗せてからチェス盤を持ち上げる。
「これ、ちょっと借ります」
「へ?」
 返事は聞かない。どちらでも良かった。この人の答えが「はい」だろうと「いいえ」だろうと、ボクは彼と戦う。そっちの方が重要だった。
 相変わらずカウンターでコップを磨いている彼の前に盤を置き、対面に座る。
 ボクの意図を伺うように首を傾げる彼に、ボクは笑みを浮かべ、気取って言った。
「マスター。ボクとも一局お願いできますか?」

 φ

「おいおいおい! マスター! あの美少女と知り合いか!?」
 ある日の午後。
 チェス盤を前にしていた僕に、キールが詰め寄りながら声をかけてきた。
 先ほど、銀色の髪を翻しながら女の子が出て行った扉を指差しながら、キールは口早に言葉を続ける。正直どうでもいいので聞き流しておこう。
 なぜか僕に異常な対抗心を持っているキールは、毎日のようにチェス盤を持って勝負を仕掛けてくる。ある日、ゴル爺さんとやっていたのを見られてしまったのが原因だとは思うものの、どうもそれ以外の理由もありそうだった。どうでもいいけど。
 当初は真面目にテーブルを挟んでやっていたのだけど、キールは本当に毎日やってきて、しかも頻繁に長考する。その間仕事をサボるわけにもいかず、たどり着いたのが目隠しチェスだった。
 というのも、うちのじーさんはチェスで日本チャンピオンになったことがあるらしいほどの腕前だったのだ。僕はかなりのおじいちゃん子だったので、物心付く前からじーさんとチェスをやっていたのである。
 祖父との触れ合いが将棋かチェスかの違いだが、思ったよりも僕にはチェスが合っていたらしい。「お前には才能があるぞ!」とか嬉々として叫ぶじーさんを前に、僕は打倒じーさんを目標にチェス三昧の幼少期だった。
 さらに、こっちのじーさん(この世界で僕を保護してくれたじーさん。この店の前店主)もチェスが好きだった。しかも、桁違いに強かった。じーさん(前)には負けないレベルにはなっていたので、それなりに自分の腕には満足していたというのに、じーさん(後)はさらに強かった。こっちは娯楽が少ないこともあって、結局じーさんが死ぬまでチェスをやってばかりだったわけで。
 そこらへんの若いもんには負けんよ、ほっほっほ。とか思っていたわけですが。
「うーん……」
 唐突に対局を迫ってきた美少女だが、これが強かった。今までに会ったことがないほどの攻撃的なチェスだ。危険を顧みずに駒を繰り出し、それを防げばさらに強力な攻撃を仕掛けてくる。攻撃こそ最大の防御とでも言いたげな棋風だった。
 ……いや、というよりも、勝つしかないという感じかな。あの戦い方だと、押し切って勝つか、凌がれて負けるかの二択だろう。大勝ちか、大負けか。そんな博打みたいな棋風だった。定石もギャンビットだったし。
 人形かと思うほど綺麗に整った顔であそこまで攻められるのは、さすがにすごい迫力だった。こう、一手ごとに首を掻き切ってやるみたいな。ビビった。正直ビビった。そこまで女性の敵になるようなことをしちゃっただろうかと、思わず胸に手を当てて考えるくらいにビビった。
「おい、あの将来がマジで楽しみな美少女は……いや、今は置いておこう。俺にはリアさんがいるからな。……で、勝負はどうなったんだよ?」
 リアさん? ……なるほど、こいつリアさんに惚れてるのか。
 思わぬところで僕に難癖を付けてくる理由が分かったものの、僕にはどうしようもないことだった。だから無視して、盤面に目をやる。
「どうなったもなにも、決着はついてないし」
「はあ?」
 盤面を見るキールだったが、すぐに顔を顰めた。そしてその顔を僕に向け、聞いてくる。
「……なあ。これ、どっちが優勢なんだ? お前、負けてるの?」
 初心者のような言葉だった。といってもまあ、キールはそこまでチェスに詳しいわけではない。
 最初、いきなり僕をチェスで倒すと豪語したくせに、ルールしか知らなかった人間だ。それにまあ、どちらが優勢かという見方をすれば、この局面だとわからないものかもしれない。
「いや、互角だよ。むしろここからが本番みたいな感じ」
 彼女との対局は、まだ均衡を保ったままだった。
 やや優勢でもなく、やや敗勢でもなく。ほぼ互角。ここからの試合運びによって、勝つも負けるも決まるという状態。
 大胆に攻める彼女に対し、僕は徹底的に防御に回った。狙いを読み、それを防ぎ、邪魔をし、駒を払う。相手の癖や棋風を見るために、初見の相手と指すときの僕の常道である。勝つことよりも、負けないことを目的とした指し方だ。攻撃に耐え、狙いをそらし、辛抱強く殻に篭る。そして、相手に隙が生まれれば、手を返してそこに切り込む。それが僕の戦い方だった。
 僕の常道に則って、猛攻によって生まれた彼女の隙を突く様に、ナイトを動かした。そこで、彼女は席を立ったのだった。
『この続きはまたの機会に』
 そう言ってから彼女は自分の名を名乗り、今度は僕の名を尋ねて、満足げに微笑んだ。
 それだけで店内の空気が明るくなったような錯覚に襲われていた僕に、彼女は白く細い手で握手を求め、それでやることは全部終わったとばかりにさっさと行ってしまったのだ。
 いったいなんだったのだろう。
「うーむ……謎だ」
「うーむ……あれは将来マジで美人になる……でも、俺にはリアさんという人が……ぐおおおお! どうしたらいいんだ!」
 となりでアホがバカなことを叫んでいるが、どうでもよかった。
 頭の中で、彼女の声が響く。
 ボクの名前は――― 
「―――アイネ、ねえ。これだけチェスが強い上に、あんだけの美少女で、しかもボクっ娘……ゲームとかだったら絶対ヒロインだろうなあ」
 ……あれ? なんか僕の頭もキールと同レベルか? いやいや……まさか、そんな……。
 とある平凡な日の話である。
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