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   真・ヒロイン登場回  


「ほいっと。これでナイトはいただきかのう」
 ある日の午前のことだった。
 まだ営業時間には変わりないのだが、僕は全力でチェスに取り組んでいた。キールのときのように目隠しではなく、しっかりとチェス盤を前に腰を据えている。
 なにしろ相手はゴル爺さんだった。この喫茶店を始めてから僕にチェスを挑む人は多いのだが、その中でも別格の存在だ。なにしろ、じーさんと唯一互角の勝負が出来たというのだから、それだけでかなりの強者だ。
 現に、僕のゴル爺さんとの戦績は芳しくない。小手先の技術ではなく、もっと根本的なものから足りないんだろう。経験だとか、貫禄だとか、あるいは直感だとか。人はいろんな名前で区別したがるけれど。
 重要なのは、恐ろしくゴル爺さんが強いということだ。初めてですよ、チェスの棋風に「老獪」とかいう言葉を感じたの。現実でもこの人は老獪だけどさ。
 長く伸びた白い髭を撫でるゴル爺さんを前に、僕は盤上を見つめる。
 確かにゴル爺さんの言うとおり、僕のナイトはタダ取りされることになるだろう。目先の危険を逸らすためにナイトを逃がせば、巧妙にクイーンが取られることになる。どっちにしろ、ナイトかクイーンのどちらかを諦めなければならない。
 上級者同士の戦いであれば、ポーンひとつの優位で勝敗が決まることすらあるというのに、これは手痛いミスだ。ゴル爺さんの勝ちは決まっただろう―――そんな風に、ゴル爺さんが思ってくれたりはしないだろうか。しないだろうなあ。
 ここでのナイトの犠牲は、僕にとって予定調和のことだった。僕のナイトを捕獲するために、ゴル爺さんはルークを動かすしかない。見逃せば、ナイトはゴル爺さんの白陣に深く食い込む。つまり、ゴル爺さんがナイトを取るのは半ば強制手。ルークがいなくなれば、開いた道が僕の軍略路になる。今までは相手の手を伺う穏やかな序盤戦だったが、キングサイドで駒の交換になるだろう。予定通りにいけば、僕の優位で終わるはずだ。
 ―――けれど。
「ひょっひょっひょっ」
 食えないなあ。変な笑い声あげてるし。
 チェスとは、高度な心理戦でもある。相手の狙い、相手の理想、相手の苦しみ。それを読みとり、想像の世界で再現する。次にするのは、それを裏切ることだ。
 向こうの世界ではネットチェスが主だったものの、パソコンの画面でするチェスは無機質であまり好きじゃなかった。人と向かい合ってこそ、チェスの本当の面白さがわかるというものである。
 ゴル爺さんの顔を伺いながら、僕は計りかねていた。
 この爺さん、心理戦が本当にうまいのだ。表情からは考えなんて読めないし、読もうとすればするほど、出口のない迷路に迷い込んだ気持ちになる。
 本当は、迷うべきではない。
 局面分析はしたし、プランも立てた。そしてスタートも切った。やるべきなのは迷うことじゃなく、なにがなんでもプランを実行し、できるだけ最善に近づけることだ。理想通りにいくことは、チェスでは稀だ。可能な範囲で妥協する必要がある。早いうちに妥協して不完全なものにするか、欲張って駒を伸ばして自滅するか。そのギリギリのラインを見切ることも、チェスの難しさだった。
 なにより、ゴル爺さんを侮れない大きな理由がひとつあった。
 というのも、この爺さん。ときどきとてつもない手を指してくるのだ。僕の狙いを完全に見抜いたかのような、僕のプランを一気に潰すような最善手を、ここぞという場面で持ってくる。まるで未来でも見えてるのかと疑いたくなるほどだった。
 うんうん唸っていると、ゴル爺さんが楽しげな声で言う。
「よいよい。存分に悩むのじゃ若人よ。悩むことは人の心を育てるでな。ひぇっひぇっひぇっ」
 食えない。本当に食えないぞこの爺さん。
 言ってることはまともだが、その目と顔が僕を挑発していた。にやにや笑ってるぞ、このじじい……!
 いいよいいよ、わかったよ。ぶっちめてやっからなあ。絶対負かして、にやりと笑ってやる。
 踏ん切りをつけて、僕はビショップを動かした。ナイトを捨てて、攻める一手。うまくことが運べば、この一手が後々で大きくなるはずだ。
「ほう!」
 一見すれば、なんてことのない一手だ。けれど、ゴル爺さんはこの一手に託した狙いを見抜いたかのように、大げさな声を上げた。
 ああ、もう。それだけで嫌な予感がする。いや待て。もしかしたらこれも揺さぶりか? あーだめだ。考えるな。この人を相手に心理戦は無謀だ。表情を見せず、盤上だけで戦うべきだ。
「さすがさすが……これだからユウちゃんの相手はやめられんわい」
 立派な髭をさすりながら、ゴル爺さんが盤を見る。
「さてさてさて。どうしたものか……」
 その口調も顔も、ただの近所の爺さんだった。けれど、目だけは煌々と光を宿していた。己の経験と直感を頼りに、全てを見据える瞳であったし、輝くものを前にした子供のような瞳でもあった。
 少なくとも、ただの爺さんが持つ瞳じゃない。冒険者であったじーさんの瞳や、アルベルさんの瞳。一流と呼ばれる人間だけが持つ、力のある瞳だった。
 それに。
 僕は、ちらりと玄関を見た。
 外から扉を塞ぐように立つ、2人の黒服さん。間違いなく、護衛とかSPとか呼ばれる存在だと思う。
 ゴル爺さんが来るたび、あの人たちはあそこに立って変なオーラを放っている。しかも、ゴル爺さんが来るときは大抵の場合貸し切りなのだ、この店。どんだけ金持ちなのかと。どんだけ重要人物なのかと。抜け出してひとりでくることもあるから、結構自由な立場なのかもしれないけど。
 もしかして大物ですかと疑いつつ、でもまあいっかと開き直る。
 うちの店にいる限りは、身分とかはどうでもいいのだ。だから僕はお客さんに本名とかは訊かないし、詳しい職業のことも訊かない。せいぜいが世間話の種みたいなレベルだ。
 なにげに不安なのが、常連さんの中に、詳しく知っちゃうといろいろ怖い気がするなあ、という人が何人かいそうなことだった。平穏を愛する我が店だけど、もしかしたら危うい均衡を保っているのかもしれない。
 ……どうしよう。……諦めよう。もうダメだ。気にしたら負けだ。今がいいならそれでいいんだ。
 現実逃避気味に結論を出した僕は、とりあえずチェスの世界に没頭して全てを忘れることにした。人生、ままならないなあ。
「ほいっと」
 ゴル爺さんがルークを動かし、ナイトをとる。
 開いた道を確保するために、僕は当然ルークを動かす……前に、ポーンを上げる。
 この手が意外だったのか、ゴル爺さんはしばし熟考する姿勢を見せた。その間の僕の暇を無くすように、ゴル爺さんが世間話を持ちかけてきた。
「そういえば、新しく天恵<ユーリア>を持つ者が現れたという話は聞いたかのう?」
「天恵<ユーリア>ですか? ……ああ、そういえば。そんな話を聞いた気もします」
 天恵<ユーリア>
 基本的にあれだ。特殊能力とか、そんなのである。魔獣と言葉を交わせるとか、無詠唱でバカ威力の魔法が使えるとか、重力を操れるとか、実にファンタジーな力だ。それも、けた違いの。
「確か、冒険者でしたっけ。あんまり名前の知られていないパーティのひとりだとは聞きましたけど」
「うむ。そうらしいの。まあ、珍しいことじゃろう。天恵<ユーリア>を得た者が現れたのは2年ぶりだったかのう」
 天恵<ユーリア>は、文字通り天からの恵みのようなものだ。得るための条件は全く不明で、死に際に手に入れたという人もいれば、風呂の最中にという人もいる。与えられるのか、限られた人間の潜在的な力なのか、わからないことだらけだそうな。
 すごいね、ファンタジー。便利な言葉だ、ファンタジー。これだけで全てが解決するのだから。
「国もさっそく勧誘に出向いたそうじゃよ。<二つ名>も用意されるそうじゃしのう」
「はあ、そりゃ一気に出世ですね。<二つ名>があれば街で利権とか使い放題なんでしょう?」
「まあ、そうじゃのう。束縛はされるが、将来は安泰といったところか」
 なにしろ、国から与えられる名誉だしねえ。<二つ名>とかちょっと中二病の匂いがするけどさ。
 <二つ名>があるだけで、冒険者<ミスト>の中では偉い顔ができる。加えて、美味しい仕事も危険な仕事も優先的に選べるわけで。
 冒険者にとっては、憧れであり、目指すべきものだ。
 本来は、大きな功績を残したものや国に多大な貢献をした者にだけ与えられるらしいが、天恵<ユーリア>を得た者は自動的に<二つ名>もついてくる。
 なにしろ、天恵<ユーリア>持ちはR=15以上の半端ない化け物とひとりでやり合えるような存在だ。国としては野放しにできないし、できるならその力を保持したいのだろう。国は破格の好待遇で、宮廷魔術士や王国騎士団のポストを用意しているとか。まさに、一等の宝くじに当たるようなものかもしれない。
 こっちでは「宝くじでも当たらないかなあ」の代わりに、「天恵が目覚めないかなあ」とぼやく人が多い。条件が不明なせいで、今のところは誰にでも可能性があるのだ。夢を抱く青少年のなんと多いことか。
 こういうのは、周りにバレた瞬間から騒動のど真ん中に立ってしまう。めんどくさいだけだろうに。
 ゴル爺さんの手が伸びて、駒を掴む。クイーンが戦場にでてくる。それは予想通りの手だったが、予想通り過ぎた手だった。
 何度考えても、僕にはこの手に対する最善手が見えていた。マイナー・ピースが交換され、クイーン同士でも交換。結果的に単純化された局面は、僕に優位だ。
 それくらい、ゴル爺さんが読み切れないわけがない。
 つまり、この先でなにか用意されているんだろう。罠か、僕には見えない別の手が。
 おもしろくない。
 ゴル爺さんの待ちかまえる場所に行くのも、その場限りで最善とされる手を選ぶことも。そうやって、常に最善とされる手を選べば、そりゃ勝負には勝てるだろう。けれど、そうなれば人間はコンピューターとなんら変わりがなくなってしまう。
 目指すのは勝利だけであるべきじゃない。楽しく指すこと。相手と言葉を交わすこと。盤上に美しさを見いだすこと。チェスというのは、所詮遊技だ。楽しんでこそ、遊んでこそ、自由であってこそ。絶対に勝たなければならない理由でもない限り、最善手だけが全てじゃない。
 というわけで、僕は最善を無視した。動かす駒はナイトで、それは奔放な手だった。なんの確証もない、直感で動かした手だ。
 これで、今までの読みからは外れた。
「ほっほっほっ。いいのう。これはいい。これこそ若さの可能性よのう」
「なんでそんなに楽しそうなんです?」
「なあに。わしのような爺の予想が裏切られるのが、なによりも楽しいのじゃよ。くぇっくぇっくぇ」
 ただでさえ皺だらけな顔をさらに皺くちゃにして、ゴル爺は本当に楽しそうに笑っていた。
 年寄りの考えることはよくわからないものの、楽しいんならまあ、いいんじゃないかと思う。僕さえ巻き込まなかったら。
 時間をかけるかと思っていたのだけど、ゴル爺は気楽に駒を動かした。
 それに合わせるように、僕も時間を置かずに手を指す。
 思慮深く、互いの手を読み合う。そんな序盤とは打って変わって、僕たちは直感だけで駒を進めていた。ぽんぽんと駒が進んでいく光景は、なかなかの爽快感があった。
 互いに交わす言葉はない。
 ただチェスを楽しむようにふたりで駒を進め、やがて終局。
 今回の勝ちは、珍しく僕だった。
「うむうむ。負けてしまったのう……」
 どこか嬉しげに、ゴル爺さんが笑う。
「アランの奴が死んでしまったときはこれでチェスの相手がおらんこうなってしまったと落胆したものじゃが……ユウちゃんの今後を思うとまだまだ死ねんのう。チェスも含めて」
「なにを期待しているのかは知りませんが、平凡な今後だと思いますよ。チェスも含めて」
 きっぱり言うと、ゴル爺さんはぴょっぴょっぴょっと笑い出す。どうでもいいが、笑い声のバリエーションが大過ぎじゃないだろうか。
「お前さん、苦労するぞい」
 確信に満ちた顔で、そんなことを言う。ええい、アルベルさんといいゴル爺といい、なんでそんなに僕を波瀾万丈の人生にさせたいのか!
 深く嘆息する僕を尻目に、ゴル爺さんは「そうじゃのう。久しぶりに負けてしもうたしのう……」と悪巧みの顔で何かを考え出した。あ、ダメだ。この爺さんの顔からは嫌な予感しかしない。
 そんな僕の予感は、見事に的中してしまった。
 ぽんっと、わざとらしく両手を打ち鳴らすと、ゴル爺さんがにたりと笑う。
「うちの孫娘を許嫁にどうじゃ? これが可愛らしくていい子でな」
「ついにボケたか、このクソ爺が」
 ……っと、つい本音が。危ない危ない。
 ふーっと額の汗を拭う仕草をする。「ユウちゃんも案外黒いのう。にょっほっほっ」とかいう声が聞こえたが、気にしないことにする。
「だいたい、ゴル爺さんの孫娘って……確かまだ11歳でしょうが」
 しかしゴル爺さんは、なにをそんなこと、という顔で続ける。
「なあに、10年後には21じゃ。美人になるぞぉ?」
「そういう問題じゃないです。僕は自由恋愛を推奨します」
「心配するでない。ユウちゃんの魅力でめろめろにしてやれば自由恋愛じゃ。うむ」
「頭が腐ってるだろアンタ」
「カッカッカッ! よう言われるよ!」
 ああもう、ダメだ。この人ダメだ。性根からダメだ。
 思わず、へへっ……と遠い目になってしまうが、それも仕方ないだろう。誰か僕を助けて。
 ゴル爺の中で何かが勝手に決められたようだったが、もうどうでもよかった。いいよいいよ、アンタの相手はするだけ無駄ってよく分かったよ。
 がくりと肩を落として落ち込んでいると、ドアのベルが鳴った。
 目を向けると、黒色のパンツスーツをきちっと着こなした麗人が、分厚い手帳を片手に入ってきたところだった。
 肩の上で切りそろえたプラチナブロンドで、どこか冷たさを感じる整った顔には控えめに化粧がされている。耳には小さなピアス。
 僕のイメージそのままの、まさに働く綺麗なお姉さんだ。
「失礼します」
 律儀にも僕に一礼してから、きびきびとした動きでゴル爺さんのもとまで歩いてくる。なんとこの人、ゴル爺さんの秘書らしいのだ。きっと、借金の形に無理やりやらされているに違いない。このエロ爺のセクハラに、必死に耐えているのだ。っく、泣けてくる。
「もうすぐお時間です」
 ゴル爺の耳元で、秘書さんが囁く。
 う、うらやましくなんてないんだからね! 僕の耳元でも囁いてほしいとか思ってないんだから!
 …………すごく……うらやましいです……。
「ふむ、もうそんな時間か。やれやれ、いつになったら休めるのやら」
 ゴル爺さんが心底だるそうに言う。その顔は、後継者がいないことに頭を悩ませる大会社の社長のようにも見えた。
 が、それもすぐにだらけた爺さんの顔になる。
「あ、リリをユウちゃんの許嫁にしようかと思うんじゃが、どうじゃろう?」
「お嬢様をですか?」
 唐突なクソ爺の言葉に、秘書さんがぽかんとする。きっと痴呆が進んだ爺さんを哀れに思っているのだろう。
「それはお嬢様にお聞きした方がよろしいかと。勝手に決めてしまっては、嫌われますよ?」
 いいぞ秘書さん! 正論だ! もっと言ってやってくれ!
「むっ……なら、そうするかのう」
 僕の願いが通じたのか、ゴル爺さんも冷静になったようだ。孫娘の子も、まさか見ず知らずの人間と許嫁とかは嫌だろうから、これで間違いなくこの話は終わりだろう。
「んじゃ、今日も仕事をするかのう……またの、ユウちゃん。今度は何か手みやげでも持ってこよう」
「普通でいいですからね? 変なものはいりませんから」
 前例があるので、一応は念を押しておく。ちぇっと舌打ちをして、ゴル爺さんは席を立った。
「ああ……働きたくないのう働きたくないのう……」
 まるでニートのようなことを呟きながら、ゴル爺さんは去っていったのだった。
「ご迷惑をおかけしました」
 残された秘書さんが、ぺこりと頭を下げる。
「いえいえ、あれはあれで楽しいですし」
 まあ、たまに遭遇するくらいならね。
 苦笑と共に言うと、秘書さんも微笑を見せてくれる。それから、財布らしきものを取り出し、取り出しますは金色の硬貨。
「では、こちらが今日の代金です」
「……いつものごとく、多過ぎだと思うのですが」
 金貨ですよ金貨。これだけで一週間は好きなだけ遊んで暮らせるんですよ。節約すれば一ヶ月は持ちますよ。
「いつもご迷惑をおかけしていますから。それに、あの方からすればお小遣いみたいなものでしょう。じじいの道楽だから受け取ってくれと言っておりました」
「はあ……それなら」
 そんなこんなで、結局はいつも受け取ってしまう僕だった。このまま断っても、最後は「それでは私が叱られてしまいます」と言われて、僕は受け取るしかなくなるのだ。それに、まあ、下世話な話だけど、お金はあったほうが助かることは確かだった。
 僕が受け取ると、秘書さんはもう一度ぺこりと頭を下げた。
「では、これで失礼いたします」
 香水だろうか。花のような甘い匂いを残して、秘書さんは颯爽と去っていった。
 ……いいなあ、秘書さん。僕も雇いたいなあ。男のロマンだよなあ。
 夢が膨らんだある日のことだった。
 しかしあの爺さん、いったい何者だろう。考えると微妙に怖いんだけど。秘書さん、お嬢様とか言ってたし。やだなあ。めんどくさいことになったら嫌だなあ。
 不安も膨らんだある日のことだった。
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