モドル | ススム | モクジ

  重なる背中  


 最悪だ。本当に、最悪だ。
 少なくない期待があった。ここまでくれば、ひとまずは大丈夫だと。あとはなんとか地下5階まで行って、転移装置で上に戻れば九死に一生。そのうち笑い話にでもできただろう。けれど、悪いことというのは本当に重なるらしかった。階下へと続く階段は、その途中で天井が崩れて瓦礫に埋もれていた。
 まさかゴルボルドが?
 いや、そんな知能はないはずだ。獲物の退路を断つほどの悪知恵が働くのなら、もっと厄介な存在になる。なら人為的? 誰が―――ってそんなことを考えてる余裕はないってば!
 階段は諦めて踵を返す。退路はもうない。階段が塞がっていて、一階への階段に続く通路も塞がっている。
 どうしようか。どうしよう。
 どうしようどうしようと呟きながら、とりあえず走る。ゴルボルドの足が遅いのがせめてもの救いだが、その利も長くは持たないだろう。こっちが体力的に負けるか、袋小路に追い込まれるか。
 せめて魔導器があれば。魔術が使えれば、どうにかできたのに。
 ないものねだりと分かっていたが、それでもそう考えずにはいられない。武器はミスリルの剣が一本、それだけだ。魔術師<メイジ>である自分では、ゴルボルドと立ち向かうには非力すぎる。ただでさえ、瓦礫がぶつかった利き腕が鈍い痛みを訴えているというのに。
 地下2階のマップを頭に浮かべながら、できるだけ逃げ道の多い方へ走る。階段でのタイムロスのせいか、ゴルボルドとの距離は近づいていた。すでにカティアにかけてもらった魔術も効果を消してしまった。状況は悪くなるばかりだ。
 やばいなあ。
 諦めにも似た感情で、そう呟いてしまう。
 私だってもちろん死にたくない。死にたくないけど、死にそうな予感がする。少なくとも、このままだと死ぬだろう。ただの学生が剣一本で勝てるほど、甘い相手ではない。
 このまま逃げ回っていても、終わりはすぐにやってくる。なにか対策を。なにか選択を。
 最後の希望としては、カティアの存在だ。
 あの子が無事怪我もなく、地上に戻れていたら―――ああ、でもダメかもしれない。
 なにしろ、通路は瓦礫の山。5階から上がって来ても、今度は塞がった階段だ。カティアが誰か助けを連れて来たとしても、道がない。運よく魔術士<メイジ>がいればあるいは―――。
 ……よし、大丈夫。まだ希望はある。
 自分を奮い立たせるように、言い聞かせる。死にたくないから、カティアを信じることにしよう。運良く魔術士<メイジ>でも見つけて、ここまで連れてきて、通路の瓦礫を吹っ飛ばして、そしてゴルボルドを倒す。私が生きているうちに。
 かなり難しい気がするものの、そこは考えないことにした。
 カティアに頼るしか、生き残る道がなさそうなのは確かだ。それがどんなに低い可能性だったとしても、あの子を信じるしかない。でなければ、剣一本でゴルボルドとの殺し合いに興じることになってしまう。勝てる見込みのない戦いは遠慮したい。
 だから、本当に。
「頼むわよ、カティア―――っ!」
 後ろから、獲物を追う獣の足音が近づいている。

 φ

 ああもうなんでアイツはいちいち騒動に巻き込まれるかなあ! いや、いちいちってほど頻繁でもないんだろうけど、僕にとっては1年ぶりくらいの再会だったわけで、こういう風にアイツを助けに走るのは2回目で、それって頻繁―――ってほどでもないか。って別にそんなことはどうでもいいんだけどさ!
 カティアに身体能力上昇的な魔術をかけてもらった僕は、カティアと並ぶようにして<迷宮>に向かって走っていた。すごい勢いで街並みが流れていく。全速力で走る僕らに奇異の目が集まるが、いちいち気にしてはいられない。
「それで! リナは地下2階にいるんだよな!?」
「そうです! 理由は分かりませんが、まだ下にはおりていませんでした!」
 走りながら、半ば叫ぶようにカティアに聞く。
 リナ―――リナリアの愛称みたいなものだけど、呼ぶのは久しぶりだった。昔はリナリナと呼んでみたりしてからかったものだけど。懐かしい呼称が無意識に出るとは、存外僕も焦っているようだった。
 ここまで来る間に大まかな状況は聞いていた。ゴルボルド―――ゴルボルドだ。アルベルさんから、確かにいるという話は聞いていた。でも、それはもう終わった話ではなかったのか? 実戦授業の前日に<始まりの鐘>の副団長という人が倒したとかいう話をお客さんから聞いたのに。
 初めから2体いたってことか? レベル1のどこかに隠れていた? でも見逃すだろうか。いくつものパーティが、ランクAらしい<始まりの鐘>までもが、ゴルボルドのもう一匹を見つけられなかった? 偶然にしちゃ出来過ぎだろ。
 言いようのない不自然さを感じる。けれど、今はそんなことに構っている場合じゃない。
 手にしたヴィヴァーチェを握りしめる。
 小降りの雨が、街を濡らしていた。
 薄暗い空模様に、こっちまで暗い考えに囚われそうになる。
 頬を打つ水滴を煩わしく思いながら、走っていく。
 僕は足の速いほうじゃないだろうし、鍛えてもいない。それでも、この速度にもどかしさを感じていた。隣に目をやれば、息を荒くして必死に走るカティアの姿。金色の髪が雨に濡れ、額に張り付いている。頬は赤く、走り方もどこか危うい。
 基礎体力からして違うのだから、仕方ない。きっと僕のところまで必死に走って来たのだから、仕方ない。でも、仕方ないで片付けられる状況じゃない。
 カティアの探査魔法でリナリアの位置は分かるそうだ。つまり、カティアを置いて行くわけにはいかない。だからカティアの速さに合わせて走っていたけど……そろそろ、彼女も限界のようだった。目に見えて分かるほど、走る速度は落ちている。その息だって、かなり荒い。いつ倒れるか心配になるほどだ。
 嫌だなあ。筋肉痛とか、本当に嫌なのになあ。それでも、それを選ぶしかないんだもんなあ。
「ああ……もう」
 大きく嘆息してから、僕はカティアを左手で抱き上げた。150cmもない身長だ。体重だってもちろん軽い。魔術で筋力が強化されていた僕は、想像よりも楽にそれを成し遂げた。
「きゃっ!? あ、あなたはなにを!」
「いいから黙る。遅いから僕が担いで行く。魔術、僕に重ね掛けして」
 突然のことに暴れそうになったカティアを押さえながら、口早に告げる。
「う……わかりました。ですが重ね掛けは―――」
「いいから早く!」
 自分でも限界だと感じていたのか、僕が担いでいくことに対しては抵抗しなかった。
 重ね掛けに対しては、心配してくれているのだろうか。そりゃ僕だってやりたくないけどさ、やらなくて間に合わなかったら後悔してもし切れない。出来る事を「嫌だ」なんて理由でやらずに、もしリナリアが死にでもしたら、僕は自分を殺すしかなくなる。
 身体能力上昇―――つまり、筋力の強化の魔術は、体への負担が大きい。ある程度であれば何の後遺症も残らないが、二重に掛けるとなると、負担も二倍だ。一週間くらいは筋肉痛だろうか。けれど今は、どうでもいい。
 僕に引き下がる気がないことを見てとったのか。それとも、そうしなければ間に合わないことを悟ったのか。カティアは僕の耳元で言葉を紡いだ。終わると同時に、体に力が満ちる。地面を蹴れば驚くほどの速度が出た。車とだって競争できそうな速さだ。風の音がうるさいくらいだった。
「きゃっ」
 バランスを崩しそうになったカティアが、僕の首に細い腕を回してしがみ付く。多少の息苦しさを感じながら、僕は走っていく。もうすぐ<迷宮>が見える。あと少し。あと少しで助けに行くから、しぶとく生き残ってろよ、リナリア。勝手に死ぬなよ――!

 φ

「もうダメ。死んだわ、私」
 向けた剣の先にいるゴルボルドを見上げて、私は思わず呟いた。
 左手で柄を握りしめながら、後ろに下がる。ずきりと走る右足の痛み。右腕の次は右足だ。今度ばかりは致命的だった。膝を擦り剥いたくらいのものだろうけど、全力で走ることは難しそうだった。
「……ったく、斧なんて投げるんじゃないわよ」
 通路が直線だったのが不味かった。距離を開けていたとはいえ、ゴルボルドの視界に入ってしまった。カティアの体ほどの石斧を、後ろから思いっきり投げ付けられたのだ。もちろん、直撃はしていない。けれど、真横に着弾した石斧は地面を大きく砕き、その破片に体ごと吹き飛ばされてしまった。目立った怪我が右足だけなのが幸いだ。まあ、見えないだけで、全身のあちこちが痛いんだけど。
 足を引きずりながら、目線はゴルボルドから離さずに後退する。どうしようか。どうしようもないかもしれない。
 腕は痛いし、足も痛いし、体中も痛い。体は砂埃で汚れていて不快だ。おまけに、目の前には豚頭。死ぬには最悪の状況だった。もし死ぬにしても、せめてもう少し綺麗に死にたい。
 もし死んだら、私の体はアイツに食べられるわけよね……?
 フゴフゴと鼻を引く付かせているゴルボルドを見る。口からは涎がぼたぼたと垂れていて、興奮したように鳴いている。あの口に、齧られるわけだ。丸ごと、がっつりいかれるわけだ。
「……冗談」
 こちとら花も恥らう乙女だっての。あんたなんかにはもったいないわよ。
 ああもう本当に。どうしようかな。絶対嫌。死ぬのも嫌だけど、アイツに食べられるのはもっと嫌。
 頭の中では必死に解決策を探している。生き残る術を求めている。けれど、答えは見つからない。どうしようもない。満足にすら動けない今の自分に、果たしてどんな選択肢があるのだろう。せいぜい、あいつに殺される前に自分で死ぬとか、そんなことしか思いつかない。
 助けは来ているのか。カティアは誰か連れてきてくれただろうか。
 一歩、また一歩。
 獲物を追い詰めるように近寄ってくるゴルボルド。
 足を引きずって逃げる私。
 残された時間は、あとどのくらいだろうか。
 もし死んだら、カティアは悲しんでくれるかしら。あんまり、気落ちしないで欲しいんだけど。自分のせいでなんて思ってほしくはないのだけど。でも、あの子は気にしちゃうだろうなあ。優しい子だもの。
 ああ、ダメだ。そう思うとますます死ねない。私が死んだせいでカティアが落ち込むとか、なんかやるせないわ。
 自分の命の危機が迫っているというのに、そんなことを考えている自分がいた。少しだけ笑う。なるほど、あの子は私の友達のようだ。認めよう。あの子は今日から私の友達。そうしよう。だったら、休日に買い物にでも行かなきゃね。買い食いとか、服とか買ったりするのもいいかもしれない。せっかくお金が貯まったんだから、もう節約もいいだろう。
 そこまで考えて、私は不意に泣きたくなった。
 ……せっかく、お金、貯めたんだけどなあ。買うつもりだったんだけどなあ。アイツに、渡すつもりだったんだけどなあ。
 言いたいことだってあった。やりたいことだってあった。渡したいものだってあった。行きたいところだってあった。懐かしい場所で、懐かしいやつと、なんてことのない毎日を送りたかった。
 そのためだけに、ずっと貯金していたのだ。私自身の区切りをつけるために。私の中で、けじめをつけるために。
 だというのに。
 だというのに、本当―――。
「聖エレミーヌさまでしたっけ? ……恨むわよ。こんな時に私を死なせるなんて。本当、恨んでやるんだから」
 ああ、もう、やだなあ。やり残したこと、いっぱいあったのになあ。
 見上げる先で、ゴルボルドの顔がニヤリと嗤う。それは、弱者を狩る捕食者の笑みだった。
 せめてもの抵抗として、威嚇するように突き出していたショートソードが、ゴルボルドの手に弾き飛ばされた。いくら名剣だろうと、使い手が素人同然ならその価値に意味はない。私の手を離れた剣は、くるくると回りながら宙を飛んで、床に突き刺さる。
 最後の武器すら失った私は、また一歩後ろに下がる。トンと、背中に当たる冷たい感触。壁だった。
 逃げ道すらも、失った。
 もう、なにも無さそうだった。
 全身から力が抜けて、ずるずると座り込む。腕が痛くて、足も痛くて、全身だって痛くて。今は、心も痛かった。後悔だけがあった。ずっとずっと溜め込んでいた、言葉だけがあった。伝えたい相手にはもう会えない。たった一言の言葉さえ、もう届かない。心の器から溢れた言葉は形を変えて、私の目からこぼれて出た。滲む視界の中で、ゴルボルドが私に手を伸ばすのが見えた。
 ―――ああ、そういえば
 こんなことが、前にもあったな、と。走馬灯のように、思い出す。同じように座り込んだ私がいて、私に迫る魔物がいて、私を守った背中があって。
 ―――アイツの背中だと、そう思った
 天井が、砕け散る。

 φ

「カティア! リナの居場所は!?」
 衛士の呼び掛けを無視して巨大な門扉を通り、定まった階に行ける主点装置の前で足を止める。地下5階なのか、このまま地下一階なのか。リナリアの居場所によって向かう先を変える必要があった。
 カティアを降ろし、訊く。
 すでに探査魔術を唱えていたカティアが、不意にその顔を歪めた。まるで迷子になった子供のような、そんな顔だった。今にも泣き出しそうで、だけど、泣かないように必死に堪えた顔。
「―――……ぁ」
「おい! 黙ってないで答えろって!」
 小さな肩をゆすぶって、視線を合わせる。訊くことに嫌な予感があった。けれど、そんな予感に頼るつもりは毛頭なかった。アイツのしぶとさは、僕が一番知っている。その諦めの悪さだって、知っている。だったら、僕がするのはアイツを信じることだ。
「……まだ、2階にいますわ……」
「無事か!?」
「……わかり、ません……動きは、止まっています。でも……」
 でも―――でも、なんだ?
「すぐ傍に、ゴルボルドが……」
 聞いて、僕はカティアを抱き上げ、鉄扉を開けて<迷宮>の中へ入った。狭い通路。淀んだ空気。灰色の道。懐かしい光景でもあり、嫌いな世界でもある場所。躊躇いはなく、迷いもない。強化された体で走りながら、腕の中のカティアに訊く。
「リナの真上はどこ?」
 消沈したカティアの動きは鈍い。その金色の瞳さえ、輝きがない。諦めた人間の瞳だった。どうしようもない現状に打ちのめされて、自分の無力さを知って、全てを諦めて。
 その瞳は、昔の僕の瞳だった。
「そんなことを訊いて―――」
「いいから答えろ!」
 声を荒げる。
 こちとら諦めるつもりなんてさらさらないだよ。ひとりで勝手に諦めるな。自分の判断だけで何でも決めつけんな。勝手にリナリアが死んだなんて思うな。現実見る前に諦めんな。
 一喝に、カティアの体がびくりと震えた。おずおずと、カティアが唇を開く。
「次の角を右に曲がって、その突き当たりです……」
 そして、僕の首をぎゅっと抱き締める。不安なんだろう。僕だって不安だ。誰かを失うかもしれないということに、不安を感じない人間はいない。失う恐怖。自分ではなにもできないという現実への恐怖。並べ立てればいくらでもある。肩を震わす少女に、僕が掛ける言葉はなかった。安っぽい言葉でどうにかできるほど、ちっぽけな恐怖じゃなかった。カティアを左腕で抱き締め返して、僕は角を曲がる。
 何ができるのか。間に合うのか。意味があるのか。諦めるのか。
 言葉と思いはいくらでもあった。脳みその中で交錯して、嫌な未来が広がった。
 僕にできるのはそれを必死に否定することだけだった。全てを飲み込もうとする恐怖に対して、人間ができることはたったひとつ。足掻くことだけだ。ただ、自分の全力を以って。認めたくない未来を否定して、足掻くことだけだ。
 ようやく突き当たりにたどり着く。そこは袋小路の行き止まり。リナリアもいけなければ、恐怖も転がっていない。床と壁があるだけだった。
 放り出すようにカティアを降ろす。
「……なにを、するつもりですの?」
 その場にぺたりと座り込みながら、カティアが訊く。その目には大粒の涙が浮かんでいた。
 カティアを巻き込まないように、離れる。リナリアがどこにいるのかをカティアに確認する。―――壁際か、調度良い。
「助けるんだよ。リナリアを」
 ヴィヴァーチェを構える。
「助けるって……ここから、どうやって……?」
 撃鉄を起こす。白銀の弾倉がかちりと回る。
「道がないなら作ればいい。簡単だろ?」
 銃口が向かう先は、僕が立つ床だ。
 僕の意図を悟って、カティアが声を荒げた。
「そんな―――そんな馬鹿なことが、できるはずありません……!」
 銃で床をぶち抜こうというんだ。普通に考えれば馬鹿なことだろう。
 そんな馬鹿を現実にする「普通」じゃないものが、今、この手にあることを、僕は感謝した。
「――――≪吹き飛ばせ≫」
 引鉄を引く。

 φ

 天井の瓦礫と一緒に、黒い何かが落ちてきた。「いてっ」とか「うわっ」とか、情けない声を上げて。瓦礫がゴルボルドを押し潰して、その黒い物体がごろごろと転がって、そして、立ち上がる。
 それはちょうど、ゴルボルドと私の中間点だった。まるで私を守るように、そいつは立っていた。黒いエプロン。白くて大きな銃。小さくて、でも頼もしい。そんな背中が―――幻想と、重なる。
 唖然とした。息を呑んだ。まさかと思った。夢でも信じた。
 でも、やっぱりそいつはそこにいて……私を、守ってくれた。
 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、涙がこぼれた。ああ、こいつは。私を守ってくれるこいつは。柄にもなく、思ってしまう。恋する乙女みたいなのは性じゃないけど、それでもこいつは―――ちょっとだけ、カッコイイじゃないか。そんなことを、思ってしまう。
 座り込んだ私の先で、ソイツはゆっくりと私に振り返った。
 その顔は、あの時と同じように自慢げで。にやりと笑った顔に、目を奪われる。
 そしてそいつは、私を見て、口を開く。
「あ、パンツ見えてる」
 ……。
 …………。
 ………………。
 …………………………一瞬でも。たった一瞬でも、格好良いとか思ってしまった自分を、殴りたい。
 ええそうよね。
 こいつってばこんな人間よね。ここぞと決めるべきときに、思い切り外すような人間よね。
 アンタ、惜しかったわね。今の一言、外す方が難しかったのよ? 「大丈夫か」でも「助けに来たぞ」でも、本当、はずれを探す方が難しかったのよ? どんな一言だったとしても、女の子ならアンタに惚れてたのよ? この状況、分かる? 命の危機に、ちょっと気になってた男の子が、来るなんて思ってなかった男の子が、助けに来てくれたのよ? 普通なら惚れてたわね。私も、その、ちょっとくらいは、惚れてたわね。でも、全部台無しだわ。アンタへの好感度、今ので一気に0になったわ。
 とりあえず足を閉じてから、私は深く深く嘆息した。
 生きてる。そのことを実感した喜びよりも、なにか、こう……大きく間違っている人間に対しての落胆の方が大きかった。なんだかなあ。本当に、なんだかなあ。こいつ、こんな人間なんだもんなあ。
 そんなことは気にした風もなく、黒のエプロン姿のユウが歩み寄ってくる。そして私の肩に手を置き、諭すように声をかける。
「リナ……黒は、まだ早いと思うんだ」
「黙りなさいっ!」
 とりあえず無事な左手で、思いっきり殴っておこう。下着を見られた上にときめきをぶち壊されたのだ。これくらいは、許されるはずだ。

 φ

 さすがにちょっと理不尽じゃないだろうか。いや、そりゃね。パンツとか見ちゃった僕も悪いけどさ。思わず本音を漏らした僕も悪かったけどさ。でも、せっかく天井に大穴を開けて助けに来たのにだよ? 身体強化の魔術がかかっていたとはいえ、落ちるのも結構痛かったんだよ? それだけ体張ったのに、お礼が鉄拳っていうのは……ねえ?
「あー、はいはい。悪かったわよ。でも空気読めないアンタも悪い」
 ぐちぐち言っていると、背中から投げやりな声が返ってくる。
「仕方ないだろ。パンツ見えてたんだから」
「それを口に出すのが空気読めてないって言ってんの!」
 ぽかりと、後ろ頭を叩かれる。
 足を怪我していて歩けないリナリアを、僕はおんぶしていた。幸い、未だにカティアがかけてくれた魔術は効果を発揮してくれているので、リナリアがずいぶんと軽い。さすがに、リナリアをおぶって天井までジャンプとかはできないので、カティアは外に助けを呼びに行っている。じきに人数が集まって、通路の瓦礫をどけてくれるだろう。それを見越して、僕たちは埋まってしまったという通路に向けて歩いていた。
「まったく……そんなのだから彼女のひとりもできないんでしょ」
「む。それは独り身のリナリアには言われたくないね」
「アンタは、で、き、な、い。私は、つ、く、ら、な、い。違いがお分かり?」
「見栄っ張りかどうかかな」
「魅力の違いに決まってるでしょ」
 そんな、取り止めもない会話をする。それだけのことが、今はとても貴重なものに思えた。
 ぽんぽんと言葉を交わしていくが、やがてリナリアが疲れらしい。はあっと大きく息を吐くと、ぽすりと僕の背中に体重を預けた。リナリアの細い腕が僕の首に回される。背中に当たる、柔らかな感触があった。
「当たってる」
「……なにが」
「胸」
「―――っ! あ、アンタって人間は本当に……! 仕方ないでしょ、大きいんだから!」
 耳元でリナリアが叫んだ。僕は言葉を返す。
「……ほう。そんなに自信がお有りですか」
「うっ」
「自分の胸に、そんなに自信が有ると仰いますか」
「……その、平均以上は……いや、平均……くらい……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ごめんなさい。嘘つきました」
「よろしい」
 嘘は良くないよね。嘘は。背伸びってのも大事だけど、現実は見ないとね。それに、胸は大きさじゃないのだ。形だ、艶だ、張りだ。ただの巨乳よりは美乳を推奨したい。……なに言ってるんだ、僕。
 しばらく、沈黙が僕とリナリアを包んだ。
 何故か、もぞもぞと居心地悪げにしていたリナリアが、ぽつりと呟くように訊いてくる。
「……重くない?」
「重い」
「むかっ。アンタねえ、こういう時は嘘でも重くないって答えるものでしょうが」
「そういう遠慮、いらないだろ?」
 この体勢だと、お互いの顔は見えない。だから、ちょっとだけ素直に、僕は言葉を紡ぐことができた。
「僕は、リナリアに言いたいことは言うよ。まあ、本気で怒らせない範囲でだけどさ。言いたいこと言って、相談したいことは相談して、話したいこと話して。そういう気の置けない関係がさ、僕たちには調度いいよ、多分ね」
 リナリアからの返事はない。あ、やべっと思わなくもなかったけれど、どうせなので最後まで言っておくことにした。
「だから、リナリアも遠慮しないでくれると、僕としては楽で嬉しい。言いたいことは言って欲しいし、たまには話くらいしたいし。まあ、嫌ならいいですよ? もちろん。振られたと思って諦めます。で、どうよ?」
 沈黙。
 あー、ダメか? なにかミスった? フラグ立てられてなかった? さすがにパンツ見えてるとかは不味かったか?
 嫌な汗を流しながら待っていると、リナリアがぽつりと呟く。
「じゃあ、私も言いたいこと、言うから」
「う、うむ」
 なんだろうか、この妙な緊張感。なに? 死ねばいいのにとか言われないよね?
 けれどそんな心配は杞憂で、リナリアの声はしおらしげだった。
「ごめんなさい」
「……はい?」
 全く予想していなかった言葉だったので、思わず聞き返してしまう。
「一年前の。私のせいで怪我、したでしょ?」
「ああ、まあ、軽いやつをね」
 言葉に思い当たって、僕はへらへらとふざけた調子で答えた。けれど、リナリアの声は真剣だった。
「嘘。下手したら死んでたって聞いたわよ。それに、背中に大きい傷跡が残ったって」
「聞いたって、誰に?」
「レムレース先生」
 あの医者……誰にも話すなって言っておいただろうが……。
 回想の中ですら高笑いしている白衣の男に悪態をつく。どうも誤魔化しはできないようなので、僕は正直になることにした。 
「まあ、ね。といっても背中だし、そんなに大したものじゃないよ。それに僕、これでも男だし。傷も勲章だね」
 すると、背中でくすりと笑う声。
「そうよね。アンタも、男の子だもんね」
「……なんか含みのある台詞だな、それ」
「べっつにー」
 くすくすと、リナリアが笑う。なんだよ、もう。
 ぶつぶつと言いながら、歩く。背中にはリナリアの重みがあって、命の温もりがあった。それが、ちょっとだけ心地いい。守ることができた。それが、嬉しかった。
 やがてリナリアの笑い声も収まる。
「あのね」
「うん」
「薬、買うから」
「薬?」
 なんだろう。アレか。馬鹿なアンタはこれでも付けてなさいとかいう感じなのだろうか。いや、馬鹿につける薬はないというのは古今東西どこも一緒のはずだ。
「怪我を傷跡ごと治しちゃう、すごいやつ」
「へえ。そりゃすごい―――けど、高いんじゃないの?」
 聞くと、リナリアが僕の首に回した腕で、ぎゅっと首を絞めてくる。
「もちろん高いわよ。この1年、どれだけ私がひもじい思いをしたか……」
「わかった。わかったから首を絞めるな」
 ぎりぎりと圧迫されていた腕から力が抜ける。今度はそっと。抱き締めるようにされて、耳元からリナリアの声。
「その薬を持って、アンタの店に行くからさ」
「うん」
「いろいろと、話したりしてもいい?」
 好かれてはいないものだと思っていた。だけど、それは僕の勘違いだったようだ。距離があると感じていたのは、リナリアが自分に負い目を感じていたからだった。そっか。僕に怪我をさせたことを、気にしてたのか。
 そんなことで―――なんて、言うことはできない。
 それに、ちょっとだけ僕は嬉しかった。僕の怪我を気にしていてくれたことも、薬を買うためにお金を貯めていたっていうことも、その気持ちが、嬉しかった。まあ、1年も僕をほったらかしなのはどうよ? とは、思わないでもなかったけどさ。
 でも、これで元通りだろう。いつものように、また話せるだろう。そこにじーさんはいないけれど、昔あったものが、返ってくるのだ。
「美味しいコーヒーを用意して、待ってるよ」
 リナリアが、僕の肩の上でこくんと頷いた。それから、ちょっとだけ迷って、ぶっきらぼうに言う。
「ありがとう」
 いろんな意味のこもった、暖かいありがとうだった。昔も、今も、僕とリナリアの全部をつなげる、ありがとうだ。ようやく、元の形に戻れた気がした。距離も壁もない、遠慮のない関係だ。
「めでたしめでたし、かな」
「なに?」
 僕の呟きに、リナリアが聞き返す。
「いいや、なんでもないよ」
「……まあ、いいけど」
 そんな言葉のひとつひとつが、僕には輝いて見えた。背中の重みが、なんだか嬉しかった。本当に、なんでもないことだったけど。そんな、ちっぽけなひとつひとつの積み重ねを、きっと幸せとでも呼ぶんだろう。クサい台詞だが、たまにはこんなのもいい。
 そんなある日の、午後の話である。
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