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   違う世界に生きる君へ  


 小学生最後の夏休みだった。首筋を太陽の光に焼かれながら、僕は両親と祖父がいるであろう喫茶店のドアを開けた。形式だけにこだわった中身のない終業式も午前中で終わって、自宅にランドセルを置いた僕は、昼食にありつくために地獄の道のりをやってきたのだった。
 冷房で冷やされた空気の満ちる店内は、まさに天国だった。もし人生が真夏のアスファルトの上を歩くことなのだとしたら、死後の世界もこのぐらいには快適であってほしいものだ。体の中に抑圧されていたものが解放されていく心地良さを感じながら、僕は店内を見回した。
 いつも通りお客さんはほとんどいない。こんな真夏日に進んで外に出ようとする人はいないだろうし、仕方なく外に出た人だって、なにも好んで街外れの寂れた喫茶店になんか来ないだろう。
「よう、夕ちゃん。お帰り」
 奥のテーブル席でパイプを燻らせていた白髪の老人が、僕に手を上げて見せた。豆腐屋の玄さんだ。朗らかな糸目の顔に僕も手を上げて挨拶を返す。玄さんの前にはうちのじーさんの背中があった。けれど、じーさんは僕が来たことには全く気付いていないようだった。
 二人はチェス仲間というやつで、若い頃にはチェスの日本一を争った仲だとかそうじゃないとか。僕の周りにいる老人の話というのは、大概にして誇張や嘘八百が混じっているとしか思えないほどにぶっとんでいるのが多いので、それが本当なのかどうかは分からなかった。
 チェスに集中したじーさんが僕に気付かないのはいつものことなので、僕はそのままカウンターに向かう。
 紺色にひよこ柄のエプロンをつけた父さんが、カウンターの向こうでノートパソコンを叩いていた。
「なに、また締め切り?」
 木製のカウンターチェアに飛び乗りながら訊くと、父さんはキーを叩く手を止めずに答える。
「そうなんだよ。うちの担当ちゃんが締め切り勘違いしててなあ。今回はおれなんにも悪くないんだぜ? 真面目にプロットも練って、夏休みの計画表まで作ってたのに。それが全部無駄になっちゃってもう、おれ挫けちゃいそう」
「いつもは一方的にこっちが迷惑かけてるくせに、何を今さら」
「それはそれ、これはこれな」
 父さんは喫茶店のマスターをやりながら、兼業で小説家という肩書きを持っていた。小説家という響きだけを聞くと格好はつくが、うちの父親を見る限りではあまり夢に溢れた仕事でもないらしい。
「あー、書くのだるいなあ。お前、代わりに書いてくんない?」
「小学生にそんなことやらせるなよ」
「だって書くのってだるいんだもん。頭の中にあることを延々と文字にするだけなんだぜ? おまけに書いた後は推敲してリライトしてまた推敲して……あ、だめだ。全部やめたくなってきた。原稿とか放り出して旅に出たい。よかった、専業にならなくて。おれ作家一筋じゃやっていけねえわ」
 物語を書くということの大変さは分からないけれど、日ごろの父さんを見るにそう楽しいものでもないらしい。働くのって疲れるんだね、という妙な実感を覚えながら、僕はキーを叩く父さんの指を眺めた。叩かれるキーの音と、店内に流れるBGMとの奇妙な競演に耳を傾けていると、カウンターの奥から母さんが出てきた。
「あ、夕くんおかえりっ」
「ただいま」
 母さんはとてもちっこい。クラスの男子の中で最小の部類に入る僕の体格は、間違いなく母さん譲りだろう。まだ一縷の望みを捨ててはいないけれど、母さんを見るに、あまり高望みはできない気がした。
 身長が150cmもない母さんは、制服を着せて放り込めば高校にだって中学にだって馴染めそうだった。若いというより幼いのである。僕と並んで歩いていても、普通に姉弟に間違えられるし。粟色でふわふわの髪は長く伸びていて、肌は真っ白だ。顔はいつものほほんと緩んでいて、思い返してみても、母さんに怒鳴られた覚えなんか一度もなかった。ゆるいというか、柔らかいというか、抜けているというか。息子から見ても不思議な人なのだった。
「外、暑かったでしょ?」
 氷をたっぷりと入れたオレンジジュースを僕に出してくれる。口をつける僕の前、もはやメイド服という呼称しか当てはまらない服装で、母さんは次いでコーヒーを淹れていた。
 母さんの衣装はコスプレというものではないのかと思うのだけど、恐ろしいほどに似合っているせいで、僕はもう何も言えない。本人も気に入ってるみたいだし。
 コーヒーを受け取った父さんが母さんといちゃいちゃバカップルをやりだしたのを視界の端にやりながら、僕は氷をひとつ口に含んだ。
 本当に暑くて、それでも例年通りで、これといった珍しいことがあるわけでもなく、小学生最後のというわりには、代わり映えのしない夏休みの始まりだった。
 φ
「あ、そうだ夕くん。夏夜ちゃんにお昼ご飯、届けてくれないかな?」
 昼食に母さんの作ったオムライスを平らげた僕は、ぼんやりと本を読んでいた。母さんの声に、文字を追っていた目を上げる。
「えー」
 別に嫌というわけでもなかったけれど、とりあえず不満げに言っておく。
「お願い。夏夜ちゃんも夕くんのこと気に入ってるみたいだし、ね?」
 本当にそうなのか、僕には確信がない。けれど母さんに言わせれば、やっぱり夏夜は僕のことを気に入っているらしい。
 夏の夜と書いて、かや。僕の5つか6つ年上のいとこだ。なんでか知らないけど、去年からこの店の近くにあるマンションにひとりで住んでいる。
 放っておくと飲まず食わずだったり、インスタントや菓子で食事を済ませてしまうような人間なので、心配した母さんがこうして定期的に食事の面倒を見ていた。もしかして、夏休みの間は僕がその役目を引き継ぐのだろうか。
 僕の返事も聞かずに、母さんはにこにこと岡持ちを取り出し、大量のクラブハウスサンドを乗せた大皿を入れる。ラップが山のように盛り上がっているのを見て、僕は思わず訊ねる。
「それ、多すぎない? 夏夜ってかなり小食だったはずだけど」
「そうかな? 夏夜ちゃんのお昼ご飯に、夕くんと夏夜ちゃんの晩ご飯でしょ。ちょっと余るだろうから、それは朝ごはんの分。これぐらいじゃないかな」
「僕の晩ご飯?」
「そうだよ。食べてくるんでしょ?」
 なにを当たり前のことを、とでも言いたげな母さんの顔。あまりに無邪気な笑みだったので流されそうになるけど、僕はなんとか踏みとどまる。
「なんで?」
「食べてこないの?」
 なんで食べてくることが前提なの?
「だって夏夜ちゃん、夕くんのこと離してくれないと思うよ? 楽しみにしてたみたいだから、夕くんが夏休みに入るの」
「だからって」
「夕くん、嫌なの?」
 首を傾げる母さんに、僕はぐっと詰まった。
 嫌なわけじゃない。というか、確かにそうだ。別にこだわるほどの理由があるわけでもない。
 それでもちょっとだけ言葉にできないもやもやを抱えた僕は、差し出された岡持ちをちょっただけ乱暴に取る。すると、岡持ちを差し出したままの姿勢で笑顔だった母さんの目じりに、じわあと涙が浮かんだ。
「ふぇ……夕くん、反抗期なの……?」
 え、これでっ?
「てめえ! ゆりを泣かせやがったな、表出ろこらあ! 教育的指導だ! おれはお前をそんな息子に育てた覚えはありませんよ!」
 エプロンに描かれた憎たらしい顔のひよこを風に躍らせながら、父さんが片手でカウンターを飛び越える。が、着地でバランスを崩して、テーブル席に頭から突っ込んだ。
「いたい! すごくいたい! なによりも息子の視線がいたい!」
 知らねえよ。
 イメージとは裏腹に、父さんは凄まじいまでに運動能力が低いのである。運動神経が悪いとかじゃなくて、もはや存在しないのだろうと思う。何もないところで普通にこけるし、態とだとしか思えないような状況で周りを巻き込むし。
 それと対照的に、母さんの運動神経は抜群である。おっとりのほほんのイメージを軽くぶっちぎって、町内の草野球ではエースピッチャーで4番を張っているほどだ。この辺りの才能は良い感じに折半されたのか、僕の運動神経はまずまずといったところだった。
 椅子に埋もれた父さんに慌てて母さんが駆け寄るのを尻目に、僕はさっさと外に出ることにした。外はもちろん暑いだろうけど、この空間はこれからがとてもめんどくさいと思う。そろそろ常連さんとかもやってきそうだし。
「あ、夕くん! 今日はお母さん、一緒にお風呂に入るからねっ。ちゃんとお話しようねっ。話せば分かり合えると思うの!」
 扉が閉まる前に母さんのそんな声が聞こえて、僕は頭を抱えた。今日は夏夜のところに泊まらせてもらおうかな。
 夏夜の住むマンションは、うちの喫茶店から歩いて10分とかからない場所にある。すぐ目の前には中学校があって、マンションの高層階からは校庭で部活動に励む中学生の姿が見えた。
 マンションは去年できたばかりだけあって、通路もエレベーターも綺麗なものだった。小学校にも中学校にも近くて、全国的にちょっとだけ有名な美氷学園も遠くない。子供を育てるには良い環境の物件だとか、そんな話を担任から聞いた覚えがあった。そのわりに、このマンションの住人はあまり多くない。
 13階建ての13階、つまり最上階でエレベーターを降りた僕は、夏の日差しが降り注ぐひっそりと静かな通路を歩いていた。並ぶ扉の半分以上には、表札に名前が書かれていない。住人がいないのか、防犯という理由だからなのか、僕にはよくわからなかった。隣に誰が住んでいようが、まるで興味がないという顔をした扉を何枚も通り過ぎて、僕はようやく一番奥までたどり着く。1313。不吉なのかどうか分からないけれど、覚えやすくていいと思う。ここの表札も真っ白だったけれど、それは家主が単にめんどくさがっただけだろうという予想はできた。
 岡持ちを左手に持ち替えて、僕はインターフォンを押した。少し待っていると、インターフォンから『入って』と一言。こちらを伺う小さなカメラを、便利だなあと一瞥してから、僕は扉を開けた。喫茶店よりもさらにキツく冷房がかけられていて、僕はまた夢見心地。けれど、温度差が激しすぎてちょっと辛いかもしれない。
 白いサンダルだけがぽつんと居座る横に靴を脱ぐ。
 廊下の左右に部屋があって、奥のリビングにつながる扉の前を左に曲がった先に、もうひとつ。こういう造りを3LDKというのだと夏夜に教わったけれど、なにがLでどれがDなのかはよく分からなかった。ただ、ひとりで住むにはちょっと広すぎると思う。
 開け放たれた左の部屋は、本棚と本で埋め尽くされている。本が多いという意味では父さんの部屋と同じだけれど、夏夜の本棚は父さんのほど漫画は多くない。代わりに、父さんの本棚よりも、難しいタイトルだったり分厚い辞典が並んでいたりする。まあ、「カラマーゾフの兄弟」と「西洋音楽史」の間に「Hな心理テクニック」とかいう意味のわからないやつが混ざっていたりもするのだけど。本当、本棚を見ればその人がよく分かると思う。
 右の扉は夏夜の寝室だ。僕は開かずの扉と呼んでいる。夏夜曰く、物が溢れているから迂闊には開けられないのだとかなんとか。それじゃ寝室の意味がないと思うのだけど。
 廊下に積まれたダンボールと本の山を避けて、リビングに続く扉を開ける。廊下よりもさらに冷えた空気が押し寄せてきて、僕はぶるりと身震いした。次いで、リビングの中心に目をやって唖然とした。
「なにやってんの?」
「人殺しテスト」
 夏夜が平然と答える。
 ボーダー柄のタンクトップに、滅多に外に出ないせいで真っ白な肌。後ろで纏めた黒い長髪。吊り気味の瞳までそっくりそのまま、そこにいるのは確かに夏夜だった。けれど、旅行鞄から上半身だけを出したその姿は、夏夜らしくないほどに間抜けだった。
 思わず嘆息した僕を気にした風もなく、夏夜は鞄から下半身を引き抜いた。とてつもなく短くカットされたジーンズから、心配になるほど細くて白い素足が伸びていて、思わず視線をそらす。
「やっぱりだめか。時間内でここに隠れるのは無理ね」
 鞄をソファの向こうに放り投げて、夏夜がため息と共に呟いた。
「またミステリー?」
「うん、またミステリー」
 というのも、夏夜もまた小説家なのだった。
 夏夜くらいの年齢でそんな肩書きを持つのがどれくらいすごいことなのか、僕には分からない。うちの父親がなれるくらいなのだから大したことのないようにも思えたし、僕には全く想像の付かない厳しい世界のような気もする。結局、僕はそのことについての判断はつけられなくて、とりあえず夏夜はがんばっているらしいという結論に行き着くのだった。
 がんばっている夏夜は、ときどき変なことをする。今みたいに鞄の中に入ったりとか、僕をねじ伏せてみたりとか。ある時は、本を詰め込んだスーツケースを階段から落としたり、僕を縛ったり、いろんな紙を一日中水に漬けていたり。なぜか僕にも被害が来ているのだけど、夏夜に言わせればそれは、リアリティを求めるために必要なことらしい。ミステリーを書くたびにそんなことをやりだすので、夏夜は全部ひっくるめて「人殺しテスト」なんて呼んでいる。
「これ、母さんから。どうせろくなもの食べてないんでしょ?」
 岡持ちを掲げながら言うと、夏夜は複雑な顔をした。同時に右と左に行こうとして、結局こけてしまったような顔。
「うー。ありがたいけど、ほんとうにありがたいんだけど」
「なるほど。夏夜はありがた迷惑だって言ってたって、母さんに伝えとく」
「そこまで言ってないわよ。食物の需要と供給が噛み合ってないから無駄になるかもってことを、これから控えめな表現で表そうとしてたの」
「否定はしないわけだ」
「ねえ、夕。ひとつ教えといてあげる。たとえ悟っても口に出さないのが大人の対処法よ」
 やっぱり否定はしないんだね。言われた通り、今度は口に出さないでおいた。
 岡持ちをテーブルの上に置き、中からクラブハウスサンドが乗った皿を取り出す。向かいの椅子に腰掛けた夏夜は、山盛りの皿を見て顔を引きつらせた。
「まさか、これ全部、私に食べろって言うんじゃないわよね?」
「もちろん」
 僕が言い切ると、夏夜の顔に絶望が浮かんだ。母さんはとても心配性なので、ご飯を残すと間違いなく押し掛けてくる。それを経験として知っている夏夜は、もうどうしたもんかという顔だった。
 夏夜の表情の変化をひとしきり楽しんだ僕は、正直に言う。
「僕の夕食の分もある」
「……それはよかった」
 ちょっと僕を睨んで、それでもほっと肩を撫で下ろす。夏夜は本当に食が細いので、中々食べきれないのだ。それでも食べなければ、目の前にある食料は永遠に消費されない。ラップを開けて、夏夜がおずおずとひとつ手に取る。僕の一口の、半分の半分くらい、先っぽをかじる。
 そんな食べ方だから細いんだろうなあ。鎖骨の浮かんだ夏夜の首元を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
 クラブハウスサンドを半分も食べないうちに、夏夜が懇願するように僕を見上げる。視線に首をすくめて応えてから、僕はキッチンに向かった。冷蔵庫から取り出したペットボトルのミネラルウォーターをコップに注ぎ、夏夜の所に持っていく。
「ありがと」
 唇を濡らすように水を飲んで、夏夜は再びクラブハウスサンドとの格闘に戻った。夏夜にとっては、食事も戦いと同じみたいだった。
 ようやくひとつを食べ終えたところで、夏夜はもう限界とでも言いたげに皿を僕のほうに押しやる。小食だ小食だとは思っていたけれど、夏夜の胃袋はどれほど虚弱なのだろう。
「もっと食べたら?」
 どうせ返ってくる答えはわかっていたけれど、なんとなく言ってみる。
「お腹いっぱいなの。私が動かすのはほら、脳みそだから。チョコレートで十分なの」
 そう言って、夏夜がテーブルの端っこに置いてあった黒い容器の中に手を伸ばす。細い指がそこから摘み上げたのは、銀色の包み紙につつまれた小さなチョコレートだ。
「太るよ」
「大丈夫。全部使うから」
 チョコレートを口に放り込んだ夏夜に言うけれど、全く気にしていないようだった。
「偏食」
「別に偏食だって困らないもんね」
「貧乳」
「脂肪のかたまりなんてあっても無駄なだけよ。男にはなんでそれが分からないかな」
「だったらなんで僕の頬をつまんでるの?」
「女の子を身体的特徴で侮辱するのはお姉さんいけないと思うの」
 僕の頬へ伸びた夏夜の腕がぷるぷると震えていた。きっとこれでも必死に力を込めているのだろうけど、驚くほど痛くなかった。
「いい歳のくせに、大人気ないと思う」
「私が今叱ってやらないで、他の誰が叱ってやるのよ」
「なるほど」
 ぺこりと頭を下げると、夏夜はえらそうに「うむ。よろしい」なんて言って、僕の頬から手を離した。
「でも貧乳もステータスっていうから、あんまり気にしない方がいいと思うよ」
「やっぱりよろしくないわ。もう一回ほっぺた出しなさい」
 伸びてきた夏夜の両手を避けながら、僕は笑みをこぼした。
 夏夜は僕を気に入っているのだろうか。そのことに確信はないけれど、僕は結構、夏夜という人間を気に入っていた。

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 夏夜は高校に入学して、1年ほどそこで過ごしてから辞めたそうだ。いじめられたとか、どうしても追いたい夢があったとか、そんな明確な理由はなくて、もちろん夏夜の両親は反対したらしい。
「なんだかね、バカらしくなったの」
 そういって話してくれたのは、いつのことだったろう。
「みんなで仲良くお勉強して、友達っていう群れを作って、所有欲と性欲なんかを混ぜ合わせたものを愛だとか恋だとか呼んで、良い大学に入るためだけに教科書に書かれたことを暗記して。そんなことを毎日繰り返して、それでどうするんだろうってね、思っちゃったわけですよ」
「思っちゃったわけですか」
 夏夜の書いた原稿に目を通していた僕は、とりあえず返事だけはしておいた。人と話すときは目を見なさいと母さんは言っていたけれど、目を合わせていたら話せないことだってあると思う。だから、僕は夏夜の声だけを聞いていた。
「そもそも、私って学校嫌いだったのよね、小学生のころから。本に書いてあることや、調べればすぐに分かることを頭に入れてどうするんだろうって。ほら、シャーロック・ホームズだって言ってたでしょ? 人間の頭脳というものはもともと小さな屋根裏部屋のようなものだから、使いそうなものだけをしまっておけばそれでもうたくさん。後は物置にでも放り込んでおけばいいってさ」
 僕が原稿をめくる音が、夏夜への返事になった。
「自分でなにが大切か、つまり何を使いそうなのかって判断することも許されずに、これは大事だから、あれも大事だからって、無理やり詰め込まれるのが嫌だったのかな。それくらい自分で選ぶわよってさ」
「その気持ちは分かるよ。僕もそろそろ自分の服は自分で選びたい。母さん、未だにヒーロー物のパンツを買ってくるんだよね」
 夏夜の笑い声が聞こえた。
「ね、自分で選びたいでしょ? 自分で身に付けるものなんだから自分で選びたいし、自分の人生なんだから自分で決めたい。そう考え出すとね、学校ってけっこう息苦しいのよ」
「僕は結構楽しいけど」
 言うと、夏夜は僕の頭をぐりぐりと撫でた。
「あんたは、どんな環境でもなんだかんだで楽しめちゃうやつよ。楽しくなかったら楽しいことを探すし、探して無いなら自分で創る。それでもだめなら、まあ明日は楽しくなるだろうって信じて、寝れちゃう。あんたは、そういう人間」
 よく分からなくて、僕は頬をかいた。褒められているのだろうけど、反応に困る。
 そんな僕を見て、くすくすと夏夜が笑う。
「私はね、根性なかったの。学校っていう世界で、どうせならここでも楽しんでやろうって思えなかった。でも、我慢もできなかった。だから逃げちゃった」
 原稿をもう一枚めくる。そこでふと気になって、僕は訊いてみる。
「それと引きこもりの関係は?」
「あ、それは無関係。単に私が出不精なだけ。個人的に嫌いなの、日の光って」
「なるほど」
 頷いてから、また原稿に戻る。
「まあ、人生なんて所詮は道楽よ。楽しんだ者勝ちだし、遊びつくした者勝ち。他人にどう言われようと、楽しけりゃそれでいいの」
 それはどこか、自分に言い聞かせているようでもあった。夏夜がいつもよりちょっとだけ饒舌で、少しだけ無理をしているように見えるのは、たぶん勘違いじゃないのだろう。そして、さっき掛かってきた電話がその原因の一端だろうという僕の予想も、勘違いというわけじゃないのだろう。
 それから少しだけ、言葉のない時間が続いた。紙の擦れる音と、壁掛け時計の秒針の声が、どこか遠慮したように響いていた。
「ねえ、そっちの世界は住みやすい?」
 ぽつりと呟くように、夏夜が訊ねた。
 その言葉の真意は、僕にはやっぱり難しくて、どんな答えを返せばいいのかも分からなかった。だから、僕は顔を上げずに、素直に答えた。
「それなりにかな。楽しいことは楽しいけど、楽しくないことだってあるだろうし。でもまあ、なんとかなるもんだよ、生きていれば」
 夏夜の返事はなくて、またちょっとだけ沈黙が落ちてきた。やがて夏夜が僕の頭に手を伸ばして、髪を梳くように撫でてくれる。
「あんたみたいなやつがひとりでもいてくれたら、私も学校を楽しめたかもね」
 優しい手の動きと、ちょっとだけ寂しそうな声。夏夜にあるのは悲哀だろうか。それとも、羨望なのだろうか。僕が立っている場所は、夏夜がうらやむ程に暖かい場所なのだろうか。夏夜が立っている場所は、日の当たらない寒いところなのだろうか。
 よくわからなかった。経験も知識も足りなくて、自分自身のことだって分からないのだから、夏夜のことまで分かるわけもなかった。だから、僕はいつも思ったことを口にするしかなかった。それが少しでも、夏夜に届けばいいと思って。
「でも、後悔はしてないんでしょ?」
 僕が言うと、夏夜はちょっとだけ驚いてから、にこりと笑った。
「まあね。少なくとも、私は自分の頭で物を考えてる」
 でも。そう置いて、夏夜は僕の頬を指でつんと突っついた。
「あんたみたいなやつと学校生活を送れるんだったら、面白かったろうなって思っただけ」
 どんな言葉を返せば良いのか困ったので、僕は原稿に目を落とした。照れ隠しとでも思われたのか、夏夜がくすりと笑う。「うりうり、夕はかわいいなあ」と頬をしつこく突っつかれたので、とりあえず腕で振り払っておいた。
 やがて原稿を全部読み終えると、夏夜が身を乗り出して僕に感想を訊いてくる。黒い髪がテーブルの上にさらりと流れて、なんだか甘い匂いがした。
「それで、どうだった?」
「難しくてよく分からなかった」
 夏夜がまた笑った。

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 体を揺らされて、僕は瞼を開けた。
 目の前に誰かいる。その顔が夢の中の彼女と重なって、僕は寝ぼけたまま呼びかけた。
「……夏夜?」
「誰よカヤって。私の顔、見忘れたとでも言うつもり?」
 勝気な声が脳みそに届いて、ようやく僕の頭は回転し始めた。体を起こすと、そこは見慣れない店の中で、僕はテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。……見慣れない?
 改めて店内を見回す。
 壁に掛けられた白銀の銃。カウンターの向こうの棚に並べられたスパイスの瓶や食器。通りに面した大きな窓。並んだテーブルと椅子。全部、見覚えのあるものだ。
 抜けていた魂が体に戻ってくるように、じわじわと意識と記憶がはっきりしてくる。そうだ。ここはあの店じゃないし、僕は小学生なわけでもない。ここはあっちとは違う世界で、迷宮都市と呼ばれるアルベルタで、僕の店だ。
「大丈夫?」
 赤い髪の女の子が僕の顔を覗き込む。紅い瞳を真っ向から見つめ返す。
「……ああ、リナリアか」
 確かめるように名前を呼ぶと、ようやく自分の中で何かが落ち着いたようだった。ほう、と息を吐く。夢のような、現実のような。あれは今の僕が見た夢なのか、それとも、今の僕が夢の中の存在なのか。なるほど、これが胡蝶の夢ってやつか。
「体調悪いの? 風邪?」
 だいぶぼんやりしてしまったせいか、リナリアが珍しく心配そうにしていた。手を伸ばされて、ひんやりとした手のひらが額に当てられる。
「熱はないみたいね」
「だ、大丈夫だって」
 なんだか気恥ずかしかった。まだ夢の中の、小さかった頃の自分が残っているみたいだ。思わず、リナリアの手から逃げてしまう。
「なによ、子供じゃあるまいし」
 リナリアがくすくすと笑う。言い返すこともできなくて、僕はそっぽを向いた。だめだ、なんだか調子が狂ってる。懐かしい夢を見たせいかな。
 外はもう薄暗くて、すでに街灯がいくつかともりだしていた。魔力に反応して光を放つ石を埋め込んだ街灯に、魔術士が光を宿していくのが窓の外に見える。
「あ、だいぶ寝ちゃったのかな」
 記憶をさかのぼってみても、鮮明には思い出せない。昼を過ぎたころにアルベルさんを見送った覚えはあるのだけど。
「昼過ぎからずっと寝てたわよ」
「見てたの?」
 リナリアの声があまりに確信に満ちていたので、思わず訊き返す。すると、リナリアから呆れた表情が返ってきた。
「見てたの、って。昼からずっといたでしょうが。この席でアンタと話してたら、『眠いから寝る。あと店番よろしく』とか言って、アンタが勝手に寝たの」
「異議あり! 僕がそんなに無責任なわけがない!」
「異議を却下します」
 ……たしかに、言われてみればそんな気もする。けれどやっぱり思い出せなかったので、とりあえずそれは置いておくことにした。
「今まで起こされなかったってことは、お客さんこなかったの?」
「ん」
 指差された方を見る。そこには、無残にも散らかった食器類に食材類。カウンターの上には小さなお金の山。 
「疲れてるんだろうから寝かしとけって言ってね、みんな勝手に作って飲んで払って、帰っていったわ」
 その優しさに、僕はちょっとだけ感動した。感動したんだけど、どうせなら後片付けまでしっかりしておいて欲しかったかな。
 思わず苦笑が漏れる。
 それから、リナリアを見上げて言っておく。話すときは相手の目を見なさいという母さんの教えに従い、紅色の瞳に視線を合わせて。
「ありがとう」
 すると、リナリアの肩がびくりと震えて、頬が赤くなった。
「な、なんで私に言うのよ! お客さんに言いなさいよね!」
「帰らずに最後まで残ってくれてたんだろ? だから、お気遣いありがとう」
 何かを言い返そうとするリナリアだったけれど、結局何も言わなかった。もにゅもにゅと唇を動かしてから、顔を赤くしたまま僕の肩をひっぱたく。
「アンタはそのまま寝てなさいっ。お皿洗いくらいは、その、やっといてあげるから」
「え、いや」
「いいから寝てなさいってば」
 赤いポニーテールを揺らしながら、リナリアがカウンターの向こうに歩いていく。僕の黒いエプロンをして、制服の腕をまくる。
 どうしようか迷ったけれど、リナリアの好意に甘えることにした。
 組んだ腕の上に顔を乗せて、おずおずと不器用に皿を洗いだしたリナリアを眺める。
 懐かしい夢だった。今はもう記憶の中にしかない世界に、記憶の中でしか会えない人たちがいた。その笑顔が懐かしくて、日常が輝いていて、交わした言葉がちょっとだけ寂しかった。きっともう、ああして話すことは出来ないのだろうということが、理解できていたから。
 会えなくなって初めて、僕は家族の暖かさを知った。帰れなくなって初めて、僕は家の安らぎを知った。失って初めて、僕は人の存在感を知った。住む場所が変わっただけ。取り巻く環境が変わっただけ。もう二度と帰れない場所に、やってきただけ。たったそれだけだというのに、こんなにも心は色あせてしまう。自分の帰るべき場所は、在るべき場所は、もう、どこにもない。
 それが少しだけ、ほんの少しだけ、寂しかった。あの頃、僕の周りにいてくれた人たちは、もう、どこにもいない。
 けれど。
 新しく出会えた人たちが、そこにいる。
 僕の視線をちらちらと気にしながら、やり難そうにお皿を洗うリナリアを見つめて、僕は笑みをこぼした。
 ねえ、夏夜。そっちの世界は住みやすい? 父さんは元気かな。母さんも相変わらず? じーさんはどう? 玄さんといつもみたいにやってる?
 僕はまあ、なんだかんだあったけど、楽しくやってるよ。
 異世界と呼ばれる、そんな場所でさ。
  
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