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  喫茶店の夜  


 うちの喫茶店は夜遅くまでやっている。
 この世界の人たちの暮らしはまさに早寝早起きなので、9時を過ぎれば酒場以外に明かりを灯す店は少ない。遊楽街に行けば煌々と妖しげな光を宿す店々と、えっちな格好の獣人のお姉さんなんかを見られるけれど、踏み込むには度胸のいる領域な気がしてならないので、あまり近寄ったことはなかった。
 街の大半が闇に覆われ、人々が眠りにつくような時間にも営業している「酒場以外のなにか」という部類になる我が店には、興味本位で訪れる人も多い。酔っ払いとか、<迷宮>帰りの冒険者とか、いろいろだ。
 その中でも特に変わった部類になるファンタジーの住人さんが、今日はそこに座っていた。
「良い香りだ」
 カップからのぼる湯気を豪快に吸い込んでファルーバさんが言った。
 僕が両手で持つようなマグカップも、ファルーバさんが持つと普通のコーヒーカップみたいだった。ファルーバさんの口はコップ状の容器からものを飲むには適していないから初めは心配していたのだけれど、それは杞憂だった。なんとまあ、熱いコーヒーを一口で流し込んでしまうのだ。
 喉元を過ぎるコーヒーを味わっているのだろう。ファルーバさんは天井に顔を向けたまま、いつも動きを止める。椅子に座っていてさえ僕より大きな体がどすんとそこにあるのは、中々に圧巻されるものがあった。人間とは違う、言葉にできない種族の壁を感じてしまうからかもしれない。纏う空気からして違うのだ。なにしろこの人、竜族だし。顔とか、竜そのものだし。背中に、でかい翼とかあるし。
 コーヒーのおかわりを用意しながら、僕は首を捻った。よくよく考えると、この状況はちょっとおかしいのではないだろうか。
 だって竜族ってあれだよね。四帝とか呼ばれる、幾多の種族の中でも格段に優れた種のひとつなんだよね。ウェットがいつか話してくれた話によると。すごい強いけど数が圧倒的に少ないんだよね。話によると。火山の高地とか、秘境の最奥とか、人が見つけられないようなすごいところに住んでるんだよね。話によると。御伽噺とかで、勇者は竜族を捜し求めて大冒険して、伝説の武器とかもらうんだよね。話によると。つまり、すっごいレアな種族なんだよね。話をまとめると。
 カウンターの向こう。大きな影を落とす漆黒の巨体を見る。
 顔を戻したファルーバさんは知性に満ちた穏やかな瞳で、僕にマグカップを差し出した。
「ユウよ、おかわりをくれ。今度は濃く頼む。苦味を味わいたい」
 普通に目の前でコーヒー飲んでるんですけど。しかも常連みたいになってるんですけど。
 物語の勇者が必死に探す相手が、普通に街の喫茶店でコーヒーを飲んでいる。勇者からすれば手間が省けていいのだろうけど、物語としてはどうなんだろう。
 勇者は喫茶店でくつろいでいた竜族を見つけ、伝説のアイテムをもらいました。
 夢もへったくれもないけど、現実ってそんなものかもしれない。またひとつさびしい現実を知ってしまった僕だった。
 きっと人はこうして大人になるのだろう。進化だとか退化だとか言うには小さすぎる変化かもしれない。けれど確かに、僕らはもう子供の頃に描いていた世界には戻れない。成長という言葉を得た代わりに、僕らはなにを失ってしまったのだろう。
 ぽとりぽとりと抽出されるコーヒーを眺めながら、僕はそんなことを考えた。思春期って意味もなくこんなことを考えるよね。人生の在り方とか、この世の無常とか。誰もが一度は通る道に違いない。人生はフレンチローストコーヒーのようなものである。特に意味はないけど。
「最近、調子はどうだ?」
「ぼちぼちですね」
 おかわりを注ぎながら僕は答えた。ファルーバさんの咽喉の辺りで、雷が唸るような音が聞こえた。大きく裂けた口が歪み、僕の腕なんか軽く噛み千切られそうなほど鋭い牙が見えた。別に威嚇しているわけではなくて、これでも笑っているのだった。
「そうか、ぼちぼちか。それはいい」
 鉄板みたいな鈍い光沢をもった腕が動いて、尖った爪が繊細な動きでカップを持ち上げる。ファルーバさんはやっぱり一口で飲み干してしまった。
 僕はさらにもう一杯、おかわりを注いだ。
 ファルーバさんはまたすぐにカップを持ち上げ、今度は顔を近づけて香りを楽しんでいた。格好良い大人が得てして持っている余裕がそこにはあった。時間に背を向けるわけでもなく、急かされることもない。この人の周りの時間は、きっとゆるやかに流れているのだろう。ファルーバさんがいることで、この店に流れる時間さえどこか穏やかになった気がした。
「我は昼に来ることは出来ぬゆえよく分からぬが、この店は繁盛しているのか?」
 ふと店内を見回して、ファルーバさんが言った。
「それもぼちぼち、ですね」
「なるほど、ぼちぼちか。この味と香りを知らぬ者がまだいるとは、不幸なことだ」
 長い顔と首を振る。ファルーバさんは超のつくコーヒー好きだった。大好物というものが誰にでもひとつやふたつはあるものだけれど、ファルーバさんはそれがコーヒーだったらしい。ある日やってきてコーヒーを飲んだ瞬間、カウンターにこぶし大の原石を出して「製法と材料を売ってくれ」とか言い出したくらいである。あの時は人間の姿だったなあ、そういえば。初対面のときと、実は私は竜族だったのだとか言い出して正体が判明したときと。サプライズには事欠かない人だった。
「ああ……うまい。最近はこれを飲まなければ体調が悪いくらいでな」
 湯気を立てるコーヒーを水のように流し込んで、ファルーバさんは恍惚として声を漏らした。背中の黒い羽がぶるりと震える。ちょっとこの人、中毒気味かもしれない。やばいなあ。禁断症状とか出始めたらどうしよう。禁酒法ならぬ禁コーヒー法とか出来るかもしれない。そうなったら地下に潜ってコーヒーを売ろう。
「おっと、忘れていた。今日は支払いに来たのだったな」
 僕がちょっとだけわくわくしていると、ファルーバさんが虚空に指を伸ばし、ぐるりと円を描きながら言った。ファルーバさんの指が始点に戻って円が完成すると、次の瞬間、そこには黒い穴がぽっかりと浮かんでいた。
 ファルーバさんはためらいなくそこに腕をつっこんでごそごそと探っている。すでに何度も見たことのある光景だったけれど、僕は未だに慣れない。だってこれ、魔法なんだもの。科学一筋の世界で生きていた僕からすれば、「わあ」という感じだった。
 ファルーバさんの腕が空間の穴から出てきたとき、その手には大きな灰色の布袋が掴まれていた。買い物帰りの主婦みたいに、中身が分かるほどぱんぱんに膨れている。
「昨日ゴスファングの肉が入ってな。ちょうどいいから持って来た。こちらの方では珍しいものだろう?」
「珍しいというか、見たことも聞いたこともないんですけど」
「それが珍しいということだよ、少年」
 どさりと布袋をカウンターに置きながらファルーバさんが言う。
 ごもっとも、と僕は頷いた。
 袋を開くと、本当に買い物帰りなんじゃないかと思うほどいろいろなものが入っていた。
 たぶんこれがゴスファングの肉なんだろう、牛肉を青く染めたような、不思議な色合いの肉塊が目に付いた。四角形のクッキーのような木の実に、真っ赤な薬草。こっちでは中々手に入らない香辛料類。他にもいろいろと入っている。
「いつもすいません。貴重なものなのに」
 そのどれもがこの街でさえ簡単には手に入らない。値段に換算すれば銀貨単位で売り買いされるような物だ。
「なに、我らにしてみれば何ら貴重ということはない。里の周りを探せばいくらでも見つかるからな。このコーヒーの方が余程貴重で素晴らしい」
 一滴ずつ抽出されているコーヒーをうずうずと見つめながらファルーバさんが言う。ファルーバさんは一瞬で大量に飲んでしまうので、おかわりを作るのに時間がかかるのだ。
 今か今かと待っている姿は、どこか子供っぽさを感じさせる。僕はちょっとだけ笑ってしまう。
 今のうちに肉なんかを冷蔵庫にしまっておこうと思って、僕は袋を持ち上げようと視線を下げた。
 ――ん? なにか光った?
 袋の中できらりと光が反射して、僕は首を傾げた。袋の中に手をつっこんで、竹の葉みたいなものに包まれた青い肉をどかす。光を反射したのは、大きな原石だった。握りこぶしよりも一回り大きい。セメントのような土の塊の隙間に、燃え盛る太陽のような紅色の澄んだ輝きがあった。それを拾い上げて、僕は唖然とした。
「……あの、ファルーバさん? これ、紅色石ですよね?」
 思わず訊いてしまう。
「む? ああ、それか。以前見つけてな。我らは闇色の者ゆえ、紅色石はただの石ころと変わらぬのだ。しかし人族にとっては違うのだろう? よく分からぬが、フィーヌが持って行けと言ってな。好きに使うと良い。ところでユウよ、そろそろいいのではないか。もう十分コーヒーは溜まっているだろう。早くおかわりをくれ」
 あまりに平然と言われてしまったので、僕もちょっとだけそんな気になってしまう。そっか、じゃあもらっちゃおうかなあ……ってそんな簡単な話じゃないですって。
 僕はファルーバさんの視界をさえぎるように石を置いて見せた。
「あのですねファルーバさん。これ、すごい価値があるものなんですよ。もうね、すごいんです。とにかくすごいんです」
「さっきからすごいとしか言っておらぬぞ、ユウよ」
 ちょっと焦ってた。よし、落ち着こう。
 この世界には「色」と「石」というものがある。ゲーム的に考えれば分かりやすいだろうか。属性とか、そういうのだ。見た目に大きな差異はないけれど、人や獣人を問わずに誰もが「色」を持っている。
 たとえば、目の前にいるファルーバさんはさっき言っていたように闇色。闇夜には力が増すし、闇の加護を得ているらしい。竜族といえばファンタジーでは最強種だったりするから、さらにすごいかもしれない。体中真っ黒だし。
 その人の「色」は大抵は髪や瞳の色で見分けられる。リナリアは紅髪紅瞳だから「紅色」だし、ユイは「闇色」だろう。髪や瞳が同色なら、持っている色はひとつ。けれど、髪と瞳の色が違う人だってもちろんいる。そういう人は2色持っているそうだ。色の存在は、加護される精霊の種類や、魔術とか魔法の相性、ついでに適応できる環境なんかに影響を与えるそうだ。
 昔、こっちに来たばっかりの頃。リナリアが仏頂面でしてくれた説明を思い出す。
 この世界には色を宿した石があって、人はそれを加工することで発展してきた。光石に刻印をして魔力を注げばそれは電灯になるし、火石はガスコンロやストーブ、暖炉の役割を果たす。だから石は生活必需品で、純度の高いものは高額で取引されていた。魔術の運用や研究には欠かせないものだから、良い物は魔術アカデミーが買い取ってくれるし。
 改めてこの石を見てみよう。
 僕のこぶしよりも大きなこの石。透き通るような紅色は、まさに紅色石の証。中に目に見えるような不純物はなく、純度は高い。たぶん、2等級の「紅涙」と呼ばれるものと思われます。紅涙は紅色魔術士が好んで使う石なので、それなりに高額でやりとりされているわけです。リナリアに聞いたところによると、金貨30枚は下らないとか。えっと、日本円にしたら300万円くらい? 学生に買えるわけがないと愚痴っていたリナリアの気持ちも分かるよ、うん。
 そこらへんのことを懇切丁寧に説明して、石商に売りに行きなさいと僕は言う。
 するとファルーバさんは僕を見下ろし、首を傾げた。
「お前には価値のないものだったか?」
「いやいやいや! 違うから! 論点が違いますから!」
「む。ならば一体、なにが問題なのだ」
「ですから、普通に売れば金貨30枚にはなるものなんですってば! こんなちっぽけな喫茶店でコーヒーの代わりとするには高価すぎるんですって!」
「お前にとって価値がないということか?」
「だから違いますよ! もっと有効活用しようってことですよ!」
「む。なにが問題なのだ」
「あーだめだこの人! 話が通じない!」
 カウンターに両手をついてうな垂れる僕。ちくしょう、価値観の相違がここまで面倒だったなんて。
 どうやって説得したものかなあと頭を捻らせていると、僕と同じように頭を捻っていたファルーバさんが口を開いた。
「よく分からぬが、我が扱いたいのは金銭の問題ではない。コーヒーは素晴らしいのだ。我の生きがいと言っても良い。この一杯があるから、妻に顎で使われようと雑用を押し付けられようと、我は毎日をがんばっていられるのだ。価値あるものには価値あるもので報いるべきだろう? その石は、我らにとって何の価値もないものだ。しかし、人族はそれを価値あるものとしていると聞いた。ゆえに持ってきた。だがお前は受け取ろうとしない。それは価値のないものだったのか?」
 竜族って女性が強いのかな……ってそうじゃなくて。
「えーっとですね、いや、価値があるんです。むしろ価値がありすぎるんですよ。価値あるものには価値あるもので報いるべきとファルーバさんが言った通り、僕はその石の価値に報いる方法がないんです。そちらの方が、すごく価値がある。だから、受け取れないというか恐れ多いと言うか」
「ふむ、なるほど」
 頷いたファルーバさんは、少しの間黙り込んでしまう。
 カウンターの上にある原石を見て、僕はちょっともったいないかなと思う。いやでも、こういうものをほいほいと受け取ってしまうと後々でやっかいなことになるというのが持論だった。身に余るものはろくなものを呼ばない。お金や肩書きや立場なんて、余計なものはない方が気楽でいいのだ。
「ならばそうだな、未来への投資ということにしないか」
「未来への投資?」
 ファルーバさんの言葉に、思わず訊き返してしまう。
 僕の顔にうむと頷いて、ファルーバさんが言う。
「我は未来への投資という言葉を信用している。それは我の父が用いた言葉だからだ。かの昔、我が幼子であった頃のこと。里に5人の来訪者があった。その頃、言葉は神によって分かたれ、種族は互いに争っていた。その者たちは争いを止めるために旅をしていると言った。そのために、我らが里に伝わる神器を借りたいと。里の長であった父は一度は断ったが、ひとりの人間が長と話し出した。我には理解出来ぬ言葉だった。父が言うには、それは神が奪った真なる言葉『神言語』で、それをあの年齢で理解できる者は神の遣いに違いないそうなのだが、まあそれは置いておこう。話し合いの結果、父はあの者たちに可能性を見たといい、我らにとって非常に価値のあるものだった神器を与えた。そのとき、父は言ったのだ。これは未来への投資だと。そして今、言葉はまたひとつとなり、種族が大きく争うこともない。未来への投資は正しかったということだ」
「はあ」
 いきなりの昔話に、僕はちょっと戸惑い気味。
「つまり、今後に期待しているということだ。さらにうまいコーヒーの可能性のためならば、我は未来への投資を躊躇わぬ。ゆえに、お前もまた遠慮せずに受け取るがいい」
 あー、うー。いや、でもですね。
 口を開こうとした僕は、ファルーバさんの目を見て反論を諦めた。僕がなにを言おうと無駄な瞳だった。竜族というのは非常に誇り高い種族らしいから、一度出した物を懐に戻すことはできないのかもしれない。江戸っ子なのだろうか。
 嘆息ひとつ。僕は受け取ることした。まあ、いいか。そのうちリナリアにでもあげることにしよう。でも300万円相当の宝石か。受け取ってくれるかな。でも他に使い道もないし。ああ、もう、やっぱり僕の手には余る代物じゃないか。
「うむ」
 頭を抱えて悩む僕を見て、ファルーバさんが満足げに頷く。
「ところでユウよ、早くおかわりをくれぬか。我はもう堪えきれそうにないぞ」
 翼をわっさわっさと羽ばたかせて、ファルーバさんが僕を見つめて言った。

 Φ

 ファルーバさんは昼のうちに挽いておいた分を見事に全部飲みきってしまった。さらにおみやげとして豆まで持っていくというので、うちのコーヒーは品切れになった。明日にでも買いに行かなきゃいけない。
「すまぬな、さんどうぃっちとやらまでもらって」
「いえ、代わりのものをいっぱい頂きましたから。これくらいならいつでも言ってください」
 僕が作った山のようなサンドウィッチを詰めた灰色の布袋を黒い穴にしまいながら、ファルーバさんが言った。僕は笑顔で首を振る。
 なんでも、前回おみやげにと持って帰った僕のサンドウィッチを大層お気に召した人がいるらしい。自分の作った料理が食べたいと言われるのは嬉しいことだった。
 黒い穴を閉じて、ファルーバさんが立ち上がる。なにしろ大きい人なので、僕は首をそらして見上げないといけない。天井には角が届きそうだった。
「我はそろそろ行こう。コーヒーを堪能し、さんどうぃっちとやらも得た。あまり人里には滞在出来ぬゆえ、やることやったら早く帰れと言われておる」
「言われてるって、誰にです?」
「うむ、我の妻だ。美しく聡いが、怒らせると非常に怖い。我は帰らねばならぬ」
 ちょっと焦っている様子。もしかして長居しすぎたのだろうか。門限でもあるのかもしれない。
 やっぱり竜族は女性優位なのかなとぼけーと考えていると、ファルーバさんが急にドアの方を見やる。僕がその視線につられるよりも早く、ファルーバさんの体を黒い闇が覆った。
 ドアベルが響いた。来店客のようだ。
「まだやってるかな?」
 白銀の髪を揺らしながら入ってきたのはアルベルさんだった。寒色系で統一された服装はラフなもので、いつもの冒険者スタイルよりも柔らかな雰囲気を感じさせた。
「あ、はい。大丈夫ですよ」
 僕が頷くと、ほっとした表情でアルベルさんが入ってくる。私服だけれど、腰にはしっかりと剣があった。やっぱり冒険者は手放せないものなのだろうか。
「では、我はそろそろ失礼しよう。また会おう、ユウよ」
「はい、また」
 僕の正面、黒いジャケットに黒の革ズボン姿の長身の男性が言う。かなり大柄だけれど、そこにいるのは確かに人間だった。ファルーバさんの人間モードである。竜というのも便利なもので、竜石というものがあれば人間の姿にもなれるそうだった。
 アルベルさんの横を通り過ぎて、ファルーバさんは外の闇に溶けて行った。
「彼は何者だい?」
 その背中を見送ったアルベルさんが、カウンター席に座るやいなや僕に訊いた。その目はどこか剣呑な光を宿していて、真っ向から見つめてしまった僕は首筋がぴりぴりした。
「ファルーバさんです。アルベルさんと同じく、コーヒー大好きな人ですよ。それ以外は、ちょっと」
 いくら綺麗なお姉さんであるアルベルさんが相手だとしても、お客さんの情報をぺらぺらと喋るわけにはいかない。
 その辺りを察してくれたようで、アルベルさんは眉尻を下げて苦笑した。少しだけ張り詰めていた空気が緩んで、僕は息を吐く。
「そうだった、すまない。どうにも職業柄のせいか気になるものでね」
「いえいえ」
「さて、とりあえずコーヒーをくれるかな。濃い目でお願いするよ」
 その言葉に、僕は頬を掻いた。
 あー、その、すいません。
「コーヒー、たった今、品切れになりました」
 僕の言葉に、アルベルさんの顔がぽかんと動きを止める。どこか少女らしい表情に、僕はちょっと胸キュンだった。カメラないかな、カメラ。
 呆然としていたアルベルさんの顔が、やがて絶望に染まる。眉をゆがめて泣きそうになって、ふらりと崩れるようにカウンターに突っ伏した。
「そん、な……これを楽しみにっ、今日も、がんばったのに……がんばったの、に…………」
 震える声音でそう呟いたっきり、アルベルさんは動かなくなってしまった。いくらなんでも大げさじゃないだろうか。コーヒーでここまで感情豊かになれるのもすごい。
 その姿に僕は苦笑してしまう。
 うーん、ここまでうちのコーヒーを愛してくれているわけだし、常連さんだし、それに綺麗なお姉さんだし。
「仕方ないか」
 僕の声に、アルベルさんがぴくりと起き上がる。
 期待の視線を背中に感じながら、棚に並んだスパイス用の瓶の後ろに隠していた小さな容器を取り出す。入っているのは少量のコーヒー豆だ。ただでさえ高いコーヒー豆の、なんと一級品である。売り物とするには高すぎるし、中々手には入らない。だから本当は、個人的に楽しもうと思っていたんだけど。
「特別ですよ?」
 まるで子供のようにきらきらとした瞳で僕を見つめるアルベルさんに、悪戯っぽく笑ってみせた。まあ、秘蔵酒ならぬ秘蔵コーヒーを綺麗なお姉さんと楽しむというのも粋じゃないだろうか。たまにはね。
 喫茶店の夜は穏やかに過ぎていく。
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