モクジ

  リリなの×Devil May Cry  


【1】

 都市街へと続く道からひとつ脇に逸れると、道路を走る車は途端に少なくなる。平日という要因もあるだろうが、なによりこの先に続くのは廃棄都市区画だった。いつしかそこに出来上がった、管理局ですら手を焼いている無法地帯に好んで近寄るような者はいないだろう。
 見通しの良い直線道路を進みながら、フェイトはふと自分の向かう先の住人について考えを飛ばした。
「もう3年、なんだよね」
 始まりはそんな言葉だった。
 もっとも、3年という期間に『まだ』と『もう』どちらをつけるか、という違いはあったが、出会ってから過ごした時間は『まだ』というにはあまりにも濃いモノだった。出会いと共に幕を上げた<アレ>との因縁もまた、同様に。
 出会い方は最悪だった。
 なにしろ、あの時はただでさえ余裕がなく、連鎖のように襲い掛かる出来事に追い詰められていたわけで。
 今でも思い出せば羞恥と申し訳なさに泣きたくなる。
 ――だが、それが切っ掛けとして始まったのだろう。
 彼との、現実から少しだけ外れた世界は。
 後悔がないと言えば嘘になる。
 それを望んだのかと聞かれれば首を振る。
 けれど、踏み込まなければ、知ることをしなければ、きっと今よりもずっと深く耐えようの無い後悔があったに違いないとフェイトは断言できた。故に、自分の選択は間違ってはいなかった。そう感じる瞬間が3年という時間の中には確かに存在した。
 だからこそ、今もまたこうして、自分は彼の元へと向かっているのだろう。
 幾度となく繰り返した問いがいつも通りの答えへと辿り着いたことに、フェイトは苦笑した。
 流れていく景色の先にようやく目的の物を見つけ、緩やかに車の速度を落とす。
 廃棄都市の中に踏み込む直前、僅かに逸れたその場所に、派手な看板を掲げた建物があった。その眼前に車を寄せる。邪魔になる気もしたものの、どうせ滅多に客は来ないかとフェイトは考え直した。あまりにも失礼な結論だったが、それは確かに事実だった。
 3年前、自慢げに彼が見せたその事務所は、今も変わらない姿でそこにある。
 そして、中にいる彼もまた、変わらない姿でそこにいるのだろう。
「よしっ」
 気を入れなおすように、掛け声をひとつ。
 フェイトは歩を進め、ミッドチルダには珍しい手動ドアを押した。
 <Devil May Cry>
 それがその店の名前だった。



「……はあ」
 店内に足を踏み入れたフェイトがまず最初に行ったのは、深いため息を吐くことだった。
 あまりにも予想通りな、というかその予想すら斜め上に越えている結果には呆れ果てる以外には対応を知らない。
 期待を裏切らないことは彼の特性だろうが、なにもこんな所まで応えなくてもいいのではないだろうか。
 文句のひとつでも言ってやろうと、フェイトはこの悲惨な状況を生み出した張本人を探すべく店内を見回す。
 ドラム一式。ビリヤード台。冷蔵庫。テレビ。中央にはフェイトの助言によって置くことになった来客用のソファにテーブル。奥に陣取るように構えられたアンティーク調の机に椅子。その上には旧式の電話が隠れるほどにピザの空箱が積み上げられ、それを彩るようにファーストフードの包みが散乱し、酒の空き缶が共演している。
 半数以上がどこから仕入れたのか全く謎な品物に加え、眉を顰めたくなるような食生活。
 再び漏れそうになる体の奥底からのため息を飲み込み、フェイトは細く白い指でこめかみを押さえた。傍目に見れば絵になる光景だったが、本人にとっては喜ばしくないことだった。
 毎回毎回、ここを訪れるたびにため息なり頭痛に襲われているような気さえする。
 いい加減慣れてもいいのだろうが、自分がこの惨状を受け入れてしまえば本格的にここは魔窟と化してしまうだろう。せめて、人が生活出来る最低ラインは死守しなければならない。
 そもそも、なぜ自分がここまで気を揉まなければならないのだろうか。
 不意にそう考え、すぐさま意識を逸らした。とりあえず、虚しさと悲しさに襲われるだけだというのはとっくの昔に分かっていた。
 ここにいないとなれば、彼は奥でシャワーでも浴びているのだろう。食生活とは裏腹に身の清潔には気を遣っている方だから。
 その考えを肯定するように奥へと続く扉が開いた。
 出てきたのは、湯気と水滴を纏った上半身裸の青年だった。銀髪に残る水滴をタオルで拭くというより飛ばしながら、青年はその目でフェイトを捉えた。
「金ならねェぞ」
 ずきり、と、頭の中に痛みが響く。これはただの頭痛なのか、それとも怒りという部類の物か。とりあえず、フェイトにはどちらでもよかった。というより、気にするだけ無駄の類だ。
「……あのね、ダンテ。私そこまでお金にうるさくないよ。返せる時に返してくれたらいいから。それより、せっかく会いに来た友達にもっと言うことはないの?」
 ダンテと呼ばれた青年はフェイトの言葉に腕を組んで思案し、思いついたとばかりに両手を広げ、口を開いた。
「ああ、悪かったな。ほら、キスしてやるぜ」
「っもう! ダンテ!」
「OK、俺が悪かった。だから振り上げたその鈍器は下げてくれ。ぺしゃんこの蛙にはなりたかない」
 両手を挙げて降参のポーズを取るダンテに、フェイトは手に持ったバッグを下ろした。鈍器とは言いすぎだが、書類やらなんやらの雑貨諸々はそれなりの重量を誇っていた。
 バッグは下ろしたが、フェイトは変わらずダンテを睨みつけていた。
 もっとも、微かに赤く染まった頬は隠しようがなく、伸長差のおかげで上目遣い。おまけに格別の美人であるため、迫力よりも可愛らしさを感じさせる。おまけに、そういう表情を平然と表に出すのだから、果たして何人の男が虜にされたのか。
 自覚がないってのは厄介だ。
 ダンテはフェイトの顔を眺めつつ、無自覚のたらしってのは恐ろしいと教訓を刻み込んだ。
「……な、なに?」
 じっと見つめられ、フェイトは思わずたじろいだ。
 なにしろ、性格はあれだが、ダンテは間違いなく良い男の部類なのだ。
 整った顔立ちだけなら、フェイトも幾人と見ている。今の時代、テレビを点ければそこにいるだろうし、管理局内にだってそういう男は所属している。なにより、彼女の兄自身がそのタイプだ。
 しかし、ダンテは彼らとも一線を喫している。
 言葉には上手く表せないのだが、強いて言うなら、力があるのだ。
 その目に、体に、雰囲気にすら。どんな状況でも失わない余裕と、不利をものともしない、不可能を覆す力。それを間近で見てきたからでもあるだろうが、ダンテには他の人間が持ち得ない不思議な魅力があった。
 ダンテ自身、自分のことを良い男だと称することはあるものの、それは見掛けだけの話であって、本当の、簡単に言えば「格好良い」ところには気付いていない。自分の行動がどう他人の目に映るか、気にしていないのだ。
 自覚がないのがすごい厄介だよね。
 フェイトは目を逸らしつつ、ダンテに恋した女の子は絶対苦労するだろうなあ、と考えていた。
 ――奇しくも、ふたりして似たような事を考えている不思議な空間が出来上がっていたが、お互いがそれに気付く事はなかった。
 ダンテが上半身裸という状況を今更ながらに理解したフェイトが、気恥ずかしいやらなんやらでどうしたものかと混乱し始めたのを見計らったように、ダンテはにやりと笑って言った。
「口に飯粒が付いてるぜ」
「え、嘘!?」
 乙女の気恥ずかしさはどこへやら。フェイトは慌てて口に手を当てる。
「冗談だ」
 フェイトのバッグが火を噴いた。



 着替えたダンテが、鈍痛を訴える頭をさすりながら机の前まで歩み寄り、横倒しになっているアンティーク調の椅子を蹴り上げた。
 くるくると舞い上がった椅子の脚が床に着くと同時に、その上へと腰掛ける。
 製作者の予想を軽く越えたアクロバティックな扱いに耐えかねた椅子が不満を告げるようにミシリと軋む音が響いたが、その音を気掛けたのはフェイトだけだった。
 ひとつ言を呈そうかと考え、どうせ無駄だろうとすぐさまに却下する。
 その代わりというわけではないが、知らぬうちにフェイトの口からは小さなため息が漏れた。
 フェイトのため息を完璧に無かったものとして、ダンテはおもむろに口を開く。フェイトがここに来た大方の理由は既に分かっていた。というより、ここに来る者は大抵がそうだ。特に、フェイトに至ってはここ最近それ以外の理由で来た覚えがなかった。
「依頼ならお断りだぜ? もうすぐ風呂上りの」
「ストロベリーサンデーなら届かないよ?」
「……なに?」
「ダンテ、またツケ溜めてるんでしょ? それを払うまでは届けなくていいよってここに来る前に言っておいたから」
 フェイトの屈託の無い笑みとともに飛び出た言葉に、ダンテは暫し呆けることになった。
 こんな事、前にもなかったか……?
 自分に対して遠慮と気遣いというものが無くなりつつある金髪の美女に嘆息する。
 しかし、こっちで右も左も分からなかったころからの付き合いであり、少なくない借りがあるのも確かだった。もちろん、金銭面という意味でも。
 身に流れる血の半分は悪魔のものだが、恩を忘れるほどに落ちぶれたつもりはなかった。
 加えて、確かにそろそろ金を工面しなければならないと思っていた所ではある。主に三食のピザとストロベリーサンデーのためにも。
 思いつく限りの理屈を並べ立て、ダンテは自分を嫌々ながらに納得させた。
 まあ、仕方ないか、と。
「とりあえず、話を聞こうかお嬢さん[レディ]?」
 これみよがしな言葉に含まれた物に気付きつつ、しかしフェイトは満足げに頷いた。
 この男とのやり取りに無駄な気遣いは必要ないというのが、ダンテとそれなりの時間を過ごしてきての総括のひとつだった。
 嫌味に返された輝くような笑みに、ダンテは肩を竦めた。
「やれやれ……本当、俺には女運ってもんがないらしい」
「誉め言葉として受け取っておくね」
 苦し紛れの一言にも、返ってくるのは笑顔だった。
 平然とファイルを取り出し、着々と話を進めようとするフェイトを眺め、ダンテは逆に清々しささえ感じ始めていた。
「……泣けるぜ」
 意図せず漏れたぼやきに返ってきたのは、見惚れるような笑みだった。

【2】

「事の始まりは1週間前。管理局本部に入った駐在支部からの緊急通信だった」
 提示されたファイルを適当にぺらぺらと捲るダンテを前に、フェイトは依頼の内容へと繋がる顛末を話し出した。
 そこに先ほどまでの和やかな雰囲気は残っていない。笑い話に出来るような内容ではなく、フェイトはそれを茶化すような性格でもない。ダンテもまた、冗談にするべき時と場合はわかっているつもりだ。
「私も録音されたものを聞かせてもらったけど、酷く錯乱してた。言葉は支離滅裂で、何を言ってるのか意を得ないのものがほとんどだった。その中で聞き取れた言葉を並べると、襲撃、全滅、ドレイク・フェルト、そして」
 そこで言葉を切り、フェイトは瞼を閉じた。それは静かな祈りにも似ていた。
「――悪魔」
「……へえ。そりゃ穏やかじゃねェな」
 眺め終わったファイルを机に放り、ダンテはソファの背に身を沈めた。口から出た言葉は天気を気にするかのように気軽なものだったが、その目には鋭利な光が宿っていた。
「で、管理局さんはもう調べたんだろ?」
「うん、すぐにね。ただ事じゃないのは明白だったらしいから。それで、救援に向かった人たちが見たのは――」
「スプラッタな惨状、ってところか」
 ダンテの言葉に、フェイトは頷いた。
「原型すら留めていなかった、って」
「そいつは過激だな。その悪魔ってヤツは随分興奮してたらしい」
「上層部の判断は、管理局に敵意を持つ人間の異常犯罪。……そんなわけないのに」
 フェイトには珍しく、その言葉の影には皮肉の響きがあった。それは現実を認めようとしない管理局の頭の固さにか、それをどうにも出来ない自分の非力さにか。
「認めたくないのさ。悪魔ってヤツをな」
 管理局も分かってはいるのだ。そして気付き始めている。
 もう、目を逸らすには自体は深刻過ぎた。
 ここ3年の間に各世界で急増した異常事件。常軌を逸した殺人。死人の残した最期の叫び。生き残った者が語る悪夢。その全ての影に見え隠れする空想の産物。誰もが夢想し、恐れ、しかし決して消える事のない存在。
 悪魔。
 その存在を、現実としなければならない。
 被害は増加の一途を辿り、遂には新たな宗教すら生まれる始末。
 事実を妄想として片付けるには、既に事は進み過ぎていた。
 しかし、それでも認めたくない。認めてはならない。それを認めれば、
「人間はベッドの下の影にもいちいちびくびくして生きていかなきゃならない。とりあえず、しばらくは夜にひとりでトイレにも行けねェだろうな」
「……そ、そうだね」
 真面目な顔から一転、気まずそうに視線を逸らすフェイトを眺め、ダンテはピンと来た。
 にやりと、意地の悪い笑みを浮かべて口を開く。
「なるほど。お前も夜トイレに行けな「わー、わーっ!」
 フェイトは、それ以上言わせて堪るものかと手をぶんぶんと振り回してダンテの言葉をかき消した。
 2人しかいないのだからそこまでして阻止する必要は特にないのだが、それはそれ。乙女の恥じらいというやつである。
「なんだよ、そこまで気にすることでもねェだろ? 別に普通だぜ?」
「うー……」
 一見フォローをしているように見えて、しかしダンテの顔にはからかう様な笑みが浮かんでいた。
 フェイトは真っ赤な顔でダンテを威嚇するが、悲しいほどに迫力がなかった。むしろ全面的に感じさせる可愛らしさは世の男達には必殺だろう。
 もっとも、ダンテという例外も少なからず存在するが。
 これ以上やると、フェイトは拗ねて会話すらまともに取り合わなくなる。
 経験上それを理解していたダンテはわざとらしく話題を変えた。
「それで、俺への依頼内容は? その悪魔にお引取り願うだけか?」
 不満は残るが、話題を変えることには全く異論のないフェイトがこほんと咳をして仕切り直す。
「うん、それで大体合ってる。ただ――」
「何だよ? 歯に肉が挟まってスッキリしねェとでも言いたげな顔して」
 ダンテのなんとも言えない比喩を右から左へ受け流しつつ、フェイトはダンテの前にあるファイルを捲る。その動きはやがて止まり、そこに写された一人の男を指差した。
「これが、この事件の引っ掛かるところなんだ」
 ダンテもその男へ目をやった。
 肩まで伸びた黒髪は手入れがされているとは思えない。顔貌はそれなりにまともな方だが、ともすれば死人と間違える程の血色の悪さと、あまりにも深い闇を宿した瞳がそれを打ち消していた。
「また随分と時化たツラだな。世界中敵だらけとでも言いたそうだぜ」
「この人がドレイク・フェルト。元管理局所属の魔導師」
「通信のヤツ、か」
 フェイトは頷いた。
 確かに、その名が出ていた。管理局のデータベースに同名はひとりだけ。
「もっとも、上層部はこの情報は無駄だって捨てたけどね」
「あん? なんでだよ。怪しいだろ? このツラは完全に悪人だぜ?」
「この人はね」
 フェイトの指が紙面上を滑る。その指が差したのはひとつの情報だった。
「もう死んでるの。3年前に」
「――へえ」
 重なる時期は偶然か。それともそれすら必然なのか。
 ダンテの瞳に、再び鋭い光が宿った。同時に、場を包む空気が重みを増した。
 身に掛かる重圧を気にもせず、フェイトはまるでその手に書いてある文字を読み上げるように続けた。
「3年前。アリストでも大きな次元震が起こったの。それはすぐに収まったけど、そこにはいくつかの<何か>があることが判明。近くを巡回中だった彼の所属する部隊がその場に駆けつけた。『俺は悪夢を見てるのか』――それが部隊長の言葉、そして同時に、最後の通信だった。後続部隊が着いた時、そこには誰もいなかった。<何か>も、先着したはずの部隊員も。あったのは、あたり一面を染め上げるほどの血液。それだけ。そこには遺体すらなかった」
「……で、結局見つからずに、全員死亡扱いってわけか」
 こくり、とフェイトが頷く。
「それから3年経った今、その中のひとりの名前が出てきた」
「胡散臭ェ話だ。犬も食わねェ悲劇だが……悪魔が出るにはピッタシか」
「今回の依頼は、事件への<悪魔>の関与の有無。そして、関与が確認された場合はその殲滅。法は極力冒さないこと。だけど、場合によっては法外の行動も認める。その場合は私に許可を取る事。まあ、いつも通りだね」
「OK。この男はどうするんだ?」
「そっちは私の仕事。だから、今回は私も同行するから」
「……」
 笑みと共に続けられたフェイトの発言に、ダンテは顔を顰めた。
「あ、もう、ダンテ? なんでそんな嫌そうな顔するの?」
「いや、今回は子守りもしなきゃならねェのかと思ってな」
「む、私はそんなに子供じゃないよ」
「夜にひとりでトイレに行けないのは十分子供だと思うぜ?」
「もうっ! それは昔の話!」
「へえ、やっぱりそうだったんだな」
「あ! ……う、も、もうっ、知らない!!」
 墓穴を掘ったことに気付いたフェイトが顔を赤くして席を立った。そのまま奥へ消え、戻ってきた時にはその手にゴミ袋を持っていた。
 そしてゴミの山となった机に歩み寄り、片っ端からゴミ袋へ放り込んでいく。
「そこでなんで掃除を始めるんだよ、お前は」
 フェイトの突飛な行動に込み上げる笑いを噛み殺しながら、ダンテは呟く。
 当然、その声は、顔を赤く染めてぶつぶつと文句を言いながら掃除に励むフェイトには聞こえなかった。
「もう! ダンテも早く手伝って!」
「はいはい」
 ため息ひとつを残して、ダンテは気だるげに立ち上がった。
 別に部屋が汚かろうがなんだろうが一向に構わないのだが、フェイトに言われては仕方がない。
 あのまま居座っていれば何かしらの凶器が飛んでくるか、それとも拗ねて無言のプレッシャーを掛けてくるか、果てには泣き出すか。
 とにかく、非常に厄介なことには違いなかった。
 こちらに来てから知り合った便利屋仲間に、女子供、特にフェイトには大甘だとか情けないだとか揶揄されるダンテの性格だったが、悪い気はしなかった。
 それはダンテ自身にも分からない、根底の部分の問題だった。
 ただ、そう。
 フェイトと過ごす時間は、悪くない。
 それだけのことだ。
「よし、フェイトは机の上のゴミを片付けてくれ。俺はそれを見守ってる」
「うん、分かっ――って、ダンテ! 私怒るよっ!?」
「冗談だ。そうカリカリすんなよ」
 ああ、悪くない。
 ぷんぷんと突っ掛かって来る眩い金色をあしらいながら、ダンテはふと昔のことを思い出していた。
 今はもう遠く、おぼろげに霞んだ在りし日。
 そこには幼い自分が居て、兄が居て、そして母がいた。
 もう2度と、決して戻らない日々。
 いつの間にか求めることすら忘れていた、穏やかな毎日。
 世界とやらを渡った今も尚、悪魔との因縁が途絶える事もなく、自身をこの状況へ陥れた黒幕も、その目的も定かではない。
 いつの日か――そう遠くない未来で、この平穏も崩れ去るのだろう。
 だが、たとえそれが分かっていたとしても、ダンテには悪くない毎日だった。

【3】

 恐怖に追われ、暗闇に怯え、安息を求めることも許されず、ただ逃げ続けていた。
 もうどれ程の間、そんな生活を繰り返して来たのだろう。
 なぜこうなってしまったのか、少女には分からない。
 たしかに、あの日の夜まで少女はどうしようもなく幸せだったのだ。
 少女の誕生日を祝うために、食卓には母の手料理が並んでいた。家族は笑みを浮かべ、そして感謝をしていた。安寧な日々を与えたくれた、慈悲深き神に。
 暖かな家、湯気の立つスープ、優しい両親。安らかな日々は、このままずっと続くのだと思っていた。――そう、信じていた。
 終わりは唐突だった。
 ガラスの砕け散る音。訪れた<何か>に怯えたように、家族を包む光は消えた。少女には何が起こったのか理解できなかった。母の胸に抱きしめられたまま、暗闇の中に響く父の声を聞いた。
 ただ、恐かった。
 何がというわけではない。なぜ恐怖を感じるのか、少女自身にも分からなかった。
 理解することは出来ず、もっとも原初的な、人間の根底に刻み込まれた血の恐怖。混乱さえ押さえ込んだそれに、少女はただ身を震わせた。抑えようのない、止め処なく溢れる身を削るような恐怖に、少女は耐えられなかった。気付く間もなく、意識は沈んでいた。
 ――目覚めた時、全ては終わっていた。
 変わらぬ暗闇に、静寂だけがあった。
 抱きしめていた母に呼び掛けた。倒れ伏していた母の腕から抜け出し、その傍らに座り込んだ。
 床に着いた手に、びちゃりと、生暖かい液体が触れた。
 微かに響く、母の声を聞いた。
 いつも通りの、優しくて、暖かい――大好きな母の声だった。
 どこに行っても、どこまで逃げても、<アレ>は執拗に追ってくる。ひとつの町に留まることも出来ず、駆けずり回るように逃げて来た。
 ただ、母の願いを叶えるために。
 それを必要とする人に届けるために。
 誰に届ければいいのか、少女には分からない。分かるのはひとりの名前。
 それが何の意味を持つのか、少女は知らない。ただ、<アレ>と戦うための武器であることだけ。
 それは、死の間際に両親から託されたものだから。届けてと、お願いされたものだから。逃げなさいと、言われたから。
 苦しみの中で浮かべられた優しい笑みと、だんだんと暖かさを失っていく柔らかな掌を、忘れる事はできない。
 安息はない。友達を作ることさえ出来ない。きっと、ひとりぼっちのままだろう。
 あの頃のような、安らぎと暖かさに満たされた家には、もう帰れない。
 それでも、これは渡せない。
 両親が必死で守っていたものだから。
 それを自分は託されたのだから。
 これは誰かを救う力になるから。
 だから。
 <悪魔>には、渡せない。



 ――今日もまた、静かに夜が明ける。
 闇は退き、再び人の住まう世界にふさわしい明るさが訪れる。
 浅い眠りから覚醒した少女は、寝起きとは思えない動きで立ち上がった。いつしか、深い眠りに身を委ねることはなくなっていた。
 だからなのか、よく夢を見る。
 両親と過ごした安らかな日々。母との他愛のない会話。友だちと駆け回った故郷の山。眠る前に傍らで父が話してくれた、人を救った魔剣士のお話。
 もうどこにも在りはしない、色褪せた思い出。決して消えることのない、大切な記憶。
 あれから変わったことと言えば、傍らに居てくれる存在を得たこと。草原の中で、地面で、眠りにつくのに慣れたこと。ひとりで生きることに、疑問を持たなくなったこと。神を、信じなくなったこと。
 暗闇の中で生きるには、少女は強くならなければならなかった。理想に頼るには、不確定な存在を信じるには、闇はあまりにも残酷だった。
 吹けば消えてしまうような小さな灯火は、襲いかかる闇に必死で抗っていた。もう戻らない、暖かな過去を拠り所にして。
「フリード、そろそろ行こっか?」
 少女が追われるように里から逃げ出して、すでに3年の月日が経とうとしていた。



 赤を基調とした皮製のコートを風になびかせながら、ダンテは人混みの中をゆったりと歩いていた。
 真紅のコートが風に揺れる度に、ぶら下がっている大量の純銀製のアクセサリーがジャラジャラと音を掻き鳴らす。活気溢れる市場の喧騒の中に紛れたその音に、ダンテは心地良さを感じていた。
 無意味に思えるほど大量のアクセサリーは、フェイトにはあまり好まれていない。
 ダンテに言わせれば、それらは全て魔除けのお守りということらしい。事実、古来より銀には魔を払う力があると信じられて来た。魔力を効率的に蓄えることが出来る銀は、人の生み出した魔具にも使用されている。
 もっとも、悪魔を狩ろうとする者が魔除けのアクセサリーを身に付けるというのは、矛盾を抱えたおかしな話である。
 単にダンテの趣味によるものなのだが、心配性な金色の美女が手を加えたそれは、ただの装飾品という枠では括れなくなっていた。
 それがダンテにとってどんな要因となったかは定かではないが、以前よりも愛着が湧いたことは確かだ。
 ジャラジャラと鳴る銀の音色を聞きながら、ダンテは視線を巡らした。
「やれやれ。まさか、いきなり放り出されるとは思わなかったぜ」
 絶え間なく行き交う人の流れに乗りながら、全く見覚えのない街並みを眺める。当然だ。初めて来たのだから。
 この世界に来て早々、フェイトはダンテを置いてさっさと行ってしまった。
「どうせ、私がいたら邪魔なんだもんね。いいよ、私は勝手にやるから」
 別れ際、フェイトの放った言葉である。
 ダンテが調子に乗ってからかい過ぎた結果、案の定フェイトは拗ねてしまった。予測に難しくないことだったが、楽しいことには歯止めが効かないのがダンテである。これもまた、よくある光景だった。
 どうせすぐに機嫌を直すだろうと、ダンテは特に心配はしていなかった。連絡が入るまで観光でもしようかと思ってさえいる始末である。
 ひとりで仕事を片付けてもいいのだが、悪魔が姿を表すのは闇が世界を覆う頃と相場が決まっている。日の高いうちに出来る事と言えば、せいぜいが情報集めだ。そして、伝手も何も持たないダンテにとって、悪魔の情報集めなど出来るわけもない。
 となると、刺激のない退屈な時間だけが残りそうだった。
「良い女、はいねェしな。さて、どうしたもんか」
 肩に掛けたギターケースを担ぎ直し、ダンテは右と左との分かれ道で立ち止まった。
 先に何があるのかは知らないが、どうせなら楽しい方がいい。
 その期待に応えるように、ダンテの耳に届く微かな声があった。
「右か。いいね、俺もそう思ってたところだ」
 不敵な笑みを残し、ダンテは歩き出した。
 数分も経たずに、道の先に出来た人だかりを見つける。
 男が多いところを見るに、どうやらむさ苦しい騒動が中心で起きているようだった。その推測に答えるように、目の前には酒場がある。
 まっ昼間っから酒に溺れていた馬鹿が、つい気が大きくなって馬鹿をやり、外で衆人の目を集めるような大馬鹿になった、と。
 有り触れた話は、予想に難しくない。
 同時に、興味を惹かれるほど面白い話でもなさそうだった。普段なら目もやらずに通り過ぎている。しかし、無駄に暇を持て余すよりは幾分かマシかもしれない。
 比較的人の薄い所を狙って、ダンテは野次馬に混ざることにした。
 その先にあったのは、良くも悪くもダンテの予想を越えたものだった。
「チンピラに婆さんにガキ……おいおい、どこの劇団だ?」
 座り込んだ老婆を庇うように、鮮やかな桃色髪の少女が男を睨みつけている。
 子供が放つにはふさわしくないその迫力に、男はたじろいでいた。しかし、集まった周囲の目に押されてか、一目に無理と分かる虚勢を張り、声を上げる。
「な、なんだよお前は!」
 大の男に怒鳴られれば、萎縮するのが普通である、大人ですらそれが当たり前なのだから、子供となれば尚更だ。しかし、男の前に立つ少女は、良くも悪くも「普通」という枠組みには入らない子供だった。
 男の怒声に怯むどころか、負けじと声を張り上げた。
「ぶつかったのはあなたじゃないですか! おばあさんは悪くありません!」
 なるほど、そういうタイプか。
 どうやら、酒場の前だから酒に関わりがあるだろうと考えたダンテの予想は裏切られたようだった。
「見ろよ、この服。そのババァのせいで汚れちまったんだぜ?」
「で、でも、あなたがわざとぶつかるのを見ました!」
 途端、少女の不思議な迫力はどこへやら。見た目相応の、どこか気弱な雰囲気が少女を包む。それに安堵した男が、我が意を得たとばかりに言葉を続けた。
「見た? そんなの知らねえよ。現に、俺はこうやって被害を受けてんだ。それ相応の責任を取るのが当たり前だろ? それとも何か? お前が弁償してくれんのか? 高かったんだぜ、この服よお」
「そ、それは……」
 返す言葉が見つからない。
 仕方のないことではあるだろう。そもそも、大人と子供がやり合って勝てる方が珍しいのだ。口も、拳も。なにより、こういう輩は性質が悪い。どんな正論を持ち出しても意味が無いのだから。ダンテにさえ「言葉が通じねェ」と言わせるほどである。
 それでも、今こうして野次馬となって遠目に見守るだけや、ちらりと目をやって、巻き込まれまいと足早に立ち去る人間よりはマシだろう。
 個人的な価値観を押し付けるわけではない。ダンテ自身、そういう輩には近寄らないようにしている。
 しかし、それに立ち向かえる人間を、ダンテは好きな方だった。
 威勢を取り戻しつつある男と、それに反論できない少女を前に、ダンテは思案した。
 例えば、ここにあの金髪がいたとしよう。アイツならどうするだろうか、と。
 ――足し算よりも簡単な問題だった。
 間違いなく、首を突っ込む。ピンチになりつつある少女の前に立ち、男を並々ならぬ迫力で睨め付け、理路整然と正論を並べ立てて論破し、追い返す。そして少女に向き合い、子供好きしそうな笑みで優しく頭を撫で、「よく頑張ったね、えらいえらい」とでも言うだろう。座り込んだままの老婆には手を貸し、「大丈夫ですか?」と。そして、周りからの拍手と賛美の声に、照れつつも足早に立ち去る――。
 あまりにも有り得そうな情景に、ダンテは苦笑した。
 その姿に重なることは遠慮したいが、偶にはヒーローを気取るのもいいかもしれない。
 暇というのは恐ろしいものだと思いつつ、ダンテは人の輪から一歩前へ踏み出した。
 突然の乱入者に、その場にいた全員の目が集まる。
 観衆の好奇の目を背中に受けつつ、ダンテはもったいぶるようにゆったりと中央へ歩み寄った。
「よお、良い天気だな?」
 予想だにしない言葉に、身構えていた男は呆けることになった。
 何なんだ、このド派手なヤツは。それが男の第一印象だった。
 無理もない。大量の純銀製アクセサリーのぶら下がった真紅のコートに、背中には大きなギターケース。ただでさえ人目を引く格好だというのに、それを纏う男は見事な銀髪を持ったモデル並の色男だ。これを派手と言わなければ、派手という言葉を使う機会はそうそう訪れないことになる。
 良い意味でも悪い意味でも、自ずと人の目を集めてしまうダンテを前に、男は一歩たじろいだ。
 明確は理由はない。ただ、そう、格の違いというものを、知らず理解しただけだった。役者が違う。それを、ひどく自然に男は理解していた。
 ここに、既に勝敗は決まったようなものだった。
「なあ、お前もそう思うだろ?」
「あ、ああ、そうだな」
 長い付き合いの友人に問い掛けるように、ダンテは男へ笑いかけた。
 あまりに親しみ深いその笑みに、しかし男は安心できなかった。その笑みに、こちらに友好を求めるようなものが一切ないことは、向けられた男自身が一番分かっていた。
「こんなに良い天気なんだ。つまらねェことでカリカリすんのはやめようぜ? 男なら服の染みのひとつやふたつ、笑って許せるだろ?」
 それは男に対する問い掛けだったが、男の返答を求めるものではなかった。
 ダンテの目を見た時、男は反論するための言葉を失った。その目に宿るものは、常人の持つそれではなかった。裏の世界に関わりを持つからこそ、半端者の男にはダンテの恐ろしさが理解できた。凄みはない。敵対心すら持っていない。しかし、だからこそ男は恐怖を感じた。
 本気のダンテを前にして、無事に済むわけがない、と。
 そしてそれは、至極正しい判断だった。
「それに」
 逃げよう。
 男がそう決意したとき、すでに手遅れだった。
 ダンテは男へ歩み寄り、その腕をシャツへと伸ばした。元々は純白であっただろうそれは、汗と埃に薄汚れ、おまけとばかりに赤い染みがいくつも出来ていた。男が言うところの、ババアのせいで汚れた証拠、である。
 それを指でなぞり、ダンテは不敵に笑いかけた。
「俺は良い色だと思うぜ?」
 知らず息を止めていた男が、ダンテの声に呼吸を取り戻す。
 背中に流れるとめどない冷や汗を感じながら、男はまず、自分が生きていることをしっかりと確かめた。
「あ、あはは、そうですよね! 俺もそう思ってたんですよ! はは、は……じゃ、じゃあ俺急いでますんで!」
 形振り構っていられる状況ではなかった。
 なんの事はない、ただ、ダンテが歩み寄っただけ。しかし、男はそこに明確な死を感じた。なぜかは分からない。ただ、自分の奥底で叫ぶものがあったのだ。逃げろと。近寄ってはいけないと。
 訳のわからない恐怖に突き動かされて、情けなさも、恥ずかしさも捨て去り、男は逃げるように走り去った。
「なんだよ、俺とは世間話も出来ないって? つれねェな」
 それを見送ったダンテが、からかうように言い放つ。決め台詞には嫌味が多いが、それでも観衆は喜んだようだった。
 囃し立てる声と鳴らされる口笛を聞きながら、ダンテはこちらを見つめて呆けていた少女に向き直った。
「ん? どうしたお嬢ちゃん。俺があんまり良い男だからってそう見つめるなよ」
「……え? あ、ご、ごめんなさいっ」
「まあ、こんな良い男が目の前にいるんだ。それも仕方ないかもな」
 大きく頭を下げて謝罪する少女に、ダンテは不敵に微笑んで見せた。どこか人を安心させる、不思議な力を持った笑みだった。
 そのお陰か、少女は謝罪を重ねることもなく、今度はお礼を言うために礼儀正しく頭を下げる。
「あの、ありがとうございました。助けていただいて」
「さて、一体なんのことだ? 俺はあの男と、天気とシャツの話をしただけだぜ? まあ、俺の目つきはちょいと悪かったかもしれねェけどな」
 悪戯をたくらむ子供のように無邪気な笑みで、ダンテはひとつウインクをして見せた。
 それを見て、少女もくすくすと控えめな笑みをみせる。
「そうですね。少しだけ悪かったです、目つき」
「おっ、言ってくれるね」
 少女から返って来た軽口に、ダンテは楽しそうに口の端を吊り上げた。
 しかし、その笑みも長くは続かなかった。
「でも、お話の中の騎士さまみたいで、かっこよかったです」
 少女から放たれた言葉に、ダンテは目を丸くした。
 騎士さま? 誰が? この俺が?
 意味を理解したところで、ダンテはたまらず声を上げて笑った。久々の大爆笑だった。ひどく面白い冗談を前にしたときのように、遠慮のない、心の底からの笑い。おかしくて仕方がなかった。
「え、え? わたし、なにかおかしなことでも言いましたか?」
「いや、ただ、俺には騎士サマなんて似合いやしねェと思っただけさ」
 未だ収まらない笑いを気合で抑えつつ、ダンテは少女に言った。
「それより、婆さんはいいのか? 寂しそうに待ってるぜ?」
「え? ……あ!?」
 ダンテの登場も相まってすっかり忘れていたのか、少女は慌てたように、座り込んだままの老婆へ駆け寄り声を掛けている。
 それを眺めながら、ダンテの笑いの渦はようやく治まっていた。
 そして、少女の指に輝くものに、ダンテの目は留まる。
(アレは……おいおい、ガキが持つには危ないオモチャだぜ?)
 上手く抑えられているが、意識を向けてみれば、その指輪から感じられるのは並みの魔力ではない。完全に解放すれば、それこそ、ダンテが持つ魔具にも劣らないだろう。
 だが、同時にそれは大きな危険を持っている。
 一定のレベルを超えた高位の魔具は、大抵が悪魔などの霊的な存在がその姿を変えたものだ。姿形は変わろうとも、そこに宿る魂が消えるわけではない。
 破壊。殺戮。死合。生贄。強者。血。
 それぞれが、不気味で危険なモノを欲して止まない。武器自身が、自らを持つべき資格のある者を選ぶのだ。
 そして、その力を、悪魔もまた求めている。
 魔具であると同時に、大きな魔力を秘めたそれは、力を欲する悪魔にはどうしようもない魅力となる。魔具自身がそう易々と悪魔の血肉にされるわけではないが、その持ち主まで無事とは限らない。
 となると、少女もまた狙われることになるだろう。いつまでも隠し通せる力ではない。
 そしてその時は、少女もまた、悪魔の影に散ることになる。
 けれど、不可解なことがひとつ。
 魔具は持ち手を選ぶ。ならばなぜ、指輪は少女の手に収まっているのか。
 覚醒していないのか。それとも、信じられないことだが――人間を、この少女を、持ち手として認めているのか。
 そうだとすれば、信じられた話ではない。高位の存在が、人間を、身を委ねるに値すると認めるなど。
 しかし、そんな考えをダンテは苦笑に伏した。
 自らもまた、半身は人間だ。そんな自分が言えたものか、と。
 それに、人間を救うために同胞を裏切った悪魔がいるのだ。そんな存在がいても、おかしくはない。
 兎にも角にも、面白そうなお嬢ちゃんだ。
 ダンテの感想はそんな所で落ち着いていた。
「あの」
 ダンテの前に、老婆を連れ添った少女が立つ。
「本当にありがとうございました」
「いやぁ、本当にお世話を掛けまして、感謝の言葉もありませんで……」
 ふたり揃って頭を下げられ、ダンテは顔を顰めた。
「だから俺は何もしてねェって言ったろ?」
「でも、わたしは嬉しかったです。だから、ありがとうございます」
 笑顔でそう言われてしまえば、ダンテには返す言葉がない。
 柄じゃねェのに、と、肩を竦めて見せるのが精一杯だった。
 そんなダンテの様子を、少女はくすくすと笑って見ていた。
「えっと、それじゃ、わたしはこれで」
 笑いを収めた少女は、傍らに置いてあったバッグを背負い上げ、ダンテと老婆に向けて口を開いた。
 親しく会話を交わす間柄ではない。別れは当然のことだった。
「ああ。ガッツあったぜ、お嬢ちゃん。将来は良い女になる。俺が保障してやるよ」
「え、えっと、ありがとうございます」
 照れたように笑う少女に、ダンテはふと思いついた。
 歩き出そうとしていた少女を呼び止める。
「あっと、ちょいと待ちな」
「はい?」
 不思議そうにこちらを見上げる少女を前に、ダンテは真紅のコートにぶら下がるアクセサリーを物色する。
 歪んだ髑髏の顔に十字架に。鎖に怪鳥。ダンテの感性でも、さすがにコレはマズイだろうと思うようなものばかりの中で、ダンテはようやくそれらしいものを見つけた。
 コートから取り外し、指で銀の輝きを拭う。
「ほら、クリスマスには早いがプレゼントだ。良い子にしてたからな」
「え? あの、くりすます、ってなんですか?」
 差し出された銀色のアクセサリーとダンテの顔を交互に見つめ、少女は不思議そうに尋ねた。
 少女の言葉に、ダンテは今更ながらに思い出した。
(そういや、こっちには、んなモン無かったんだったな)
 なんだかんだで、こっちに来てからのクリスマスは中々波乱に満ちていた。主に金髪美女やらが深く関わっていたりするのだが、その金髪もクリスマス文化は知っていたおかげで、ついついあっちとの違いを忘れてしまっていた。
「あー、そうだな。赤い服の妖精が、良いことをした子供にご褒美をやる文化のことさ。ほら、ピッタシだろ?」
 僅かな思案の後にダンテが出した結論は、当たらずとも遠からずなものだった。
 しかし、ダンテ自身は中々気に入った答えらしく、自慢げにその真紅のコートを揺らした。
「はあ。そんな文化があるんですか?」
「ああ、俺の住んでた所じゃ誕生日は皆で仲良くお祝いしましょうってのと同じくらい当たり前のことだぜ?」
「そうなんですか」
 感心したように相槌を打つ少女に、ダンテは満足げに頷いた。
 だからな。そう置いて、ダンテはアクセサリーを差し出した。
「良いことをしたお嬢ちゃんに、やるよ」
「わ、わたしにですか!?」
 ようやく意味を理解したらしい少女は、ダンテの手にあるものを見つめて、ダンテの顔を見つめて、と。焦ったようにそれを繰り返しながら、小さな両手を体の前で揺らして、断ろうとする。
「いえ、あの、そんな、申し訳ないですっ!」
「おいおい、子供は遠慮しないもんだぜ? それにせっかく用意したんだ。貰ってくれないと俺のカッコが付かない。な? 俺のためにも貰ってやってくれよ」
 その言葉に、うーとか、あーとか、えぅーとか、特色ある声を上げながら悩んでいた少女は、ゆっくりと両手を差し出した。
「いただき、ます」
 ダンテは笑みを浮かべて、その手にアクセサリーを置いた。
 自らの手に収まったそれを、少女はじっと見つめた。
 銀色に輝くのは、三日月と翼を広げた鳥の姿だった。精巧に彫りこまれた銀細工に、少女は魅入られていた。単純な構図だが、なぜだろうか。神話のワンシーンを切り取ったかのような不思議な魅力が宿っていた。
 気に入った。気に入ってしまった。すごく。
 そんな少女の姿を、ダンテは満足げに見ていた。
「あの、いいんですか? こんなに素敵なものをもらってしまって……」
「なに、代わりはいくらでもあるからな」
 少女に見せ付けるように、ダンテはコートを揺らした。
 その動きに合わせて、ジャラジャラとアクセサリーが歌う。
 それを見て、安心したのか納得したのか、少女はもう一度深く頭を下げてお礼を言うと、ダンテに背を向けて歩いて行った。
 人混みのなかに消える小さな背中を見送り、ダンテは感嘆した。
「最近の子供も馬鹿にできねェな」
 本当なら、ここでダンテと少女の縁は切れただろう。もう2度と会うこともなく、いつしか少女のことも記憶の底に埋もれていくことになったはずだ。
 けれど、もう少しだけ、2人の縁は繋がることになる。
「じゃあな、婆さん。チンピラと良い男には気を付けろよ?」
 えらく口数の少ない老婆に声を掛け、ダンテはその場を後にした。
 少女の姿はもう見えないが、自分の魔力が宿ったアクセサリーは、しっかりとその存在を感じられた。



 ダンテが立ち去ったその場所に、老婆は変わらず佇んでいた。
 途絶えることのない人の流れを、老婆は変わらず眺めていた。 
 誰もがそこに立つ老婆を見ることもなく、そしてその存在に気付きはしない。
 老婆を包む暗闇に、誰も目を向けることはない。
 切り取られた異端の領域の中で、老婆はしわがれた声で呟いた。
「へえ、へえ……あんた方も、せいぜいお気をつけ下さいな……」
 老婆は、その皺だらけの顔に歪な笑みを浮かべた。
「無駄とは、思いますけどねえ……ヒッ、ヒッ……」
 風が吹く。
 ――そこにはもう誰も存在していなかった。
 もっとも、そこに老婆がいたことさえ、誰も気づいてはいない。迫り来る深き闇の住人にも、また。
 忘れてはならない。
 光の届かぬ深き闇の中に、身を隠して爪を研ぎ、機会をうかがっている<何か>がいることを。

【4】

 ころころと転がってきた小さなボールに、フェイトは足を止めた。足元のボールを屈んで拾い上げると、その持ち主を探して辺りを見回す。10歳くらいだろうか。金色の髪を揺らしながら、少女が小走りに駆け寄って来た。
 フェイトの手にあるボールに気付き、いくらか逡巡したあと、少女が控えめに声をかけた。
「あの」
 少女の目線に合わせるようにしゃがんで、フェイトは親しげな笑みを見せる。
「これ、あなたの?」
「は、はい」
「この辺りは人通りが少ないみたいだけど、気をつけてね」
 差し出したボールを受け取り、少女がぺこりと頭をさげた。穏やかな笑みを見せるフェイトに、少女も花の咲くような朗らかな笑みを見せ、来た時と同じように小走りで戻っていく。少女の駆け行く先には、同じ年頃の少年や少女がいた。10人は超えているから、何らかの集団施設の仲間だろうか。
 その中に、ボールを手にした少女が戻っていく。子供達の輪の中に一人、白髪を結い上げた老婆がいた。丁寧な会釈をされ、フェイトも立ち上がって会釈を返した。
 暖かな笑みを浮かべ、老婆は楽しそうに子供達を見守っていた。老婆の周りを子供達の賑やかな笑い声が包んでいた。
 少しの間それを眺めてから、フェイトは再び歩き出した。
 これから向かう場所に笑顔は相応しくない。しかし、フェイトは自ずと浮かぶ笑みを堪える事はできなかった。
 いくらか軽くなった歩調のまま、街中を縫うように作られた歩道を歩いていく。
 見回しても、ミッドチルダのような高層の建造物はほとんどなかった。文化レベルとしてはミッドチルダよりも低いが、そこに住む人々の活気に大きな違いはなかった。街中には市場が開かれ、賑やかな声が響いている。
 店先にはフェイトの見たことのない果物や香辛料がこれでもかと並べられ、売買のやり取りがあちこちで行われていた。
 そんな殷賑の中であっても、長い髪を楽しげに揺らしながら歩く金髪の麗人は、否が応でも人目を引いた。
「よ、そこの美人さん! ピュールはどうだい? 安くしとくよ!」
「なら俺はそっちの半値でいいや! 寄ってってくんなよ!」
「は! てめえらのは昨日の売れ残りだろうが! こっちのルアザは今朝仕入れたばっかだ! どうだいお嬢ちゃん!」
 引っ切り無しに掛けられる声のひとつひとつに、フェイトは丁寧に断りの言葉を返す。当然、その割合を占めるのは圧倒的に男が多かったが、フェイトがそれに気付くはずもなく、この市場ではこれが普通なのだと思っていた。フェイトが歩く先々で一際大きな喧騒が起きるが、そのことに気付いていないのもフェイトだけだった。自分のことに限ってはとことん疎い金色だった。
 ほとんど一方的な異文化交流を終え、市場を抜けたフェイトは町外れへと続く道を歩いていた。市場の喧騒が遠く聞こえる。
 賑やかさが消えたことにいくらかの寂しさを感じつつ、フェイトは尚も歩みを進める。
 フェイトを包む静寂を破るように電子音が鳴った。
 一度周囲を確認してから手早く回線を開くと、画面の中に男の顔が映し出された。
「はい」
「やあフェイトさん。ご機嫌麗しゅう」
 本気とも冗談とも取れない表情で口を開いたのは、見知ったフェイトの同僚だった。そして、悪魔を知る数少ない人間のうちのひとりだ。
 執務官という狭き門を通ったのだから実力は保障されている。加えて、流れるような銀髪を持ち、容貌もモデルのように整っている。おまけに父親は有名企業のトップ。性格も良いと評判。つまるところ、女性局員の憧れの人という立場に位置するタイプの人間だった。
 フェイトの彼に対する情報も、ほとんどが顔見知りの女性達から聞き及んだものだ。
「レイナーズ執務官、なにか御用ですか?」
「あっと、その前に。この通信はごくプライベートなものですから。呼ぶときは是非名前でお願いします」
 男は親しげな笑みを浮かべて言った。
「どうもレイナーズという響きは好きになれなくて」
「はあ」
 これと言って断る理由を持たないフェイトは、言葉通りに言い直す。
「では、アルティスさん。御用はなんですか?」
 満足気に微笑んで見せたアルティスは、道端で会った友人と世間話でもするような気軽さで切り出した。
「第48管理世界で黒猫が出たみたいです。今度はどうも、他とは趣の違う話のようですが」
「また、ですか」
 黒猫。
 アルティスが含ませた意味は、名前ほど可愛らしいものではない。それは<悪魔>を彼なりに言い換えた表現だった。
 通信で悪魔などと話していて、不意に誰かに聞かれてしまうと面倒なことになる。それを避けるために、いつしか、悪魔という名を各々が好き勝手に例えるようになっていた。
「今月に入ってこれで6件目。前年に比べて明らかに増えています。何らかの要因があるのか、それともただの偶然か。どちらにしろ好ましいことじゃありませんね」
「それで、被害は?」
「ありません。負傷者もいません」
「ひとりもですか?」
「ええ、全くの0です」
 フェイトが微かな不信を浮かべる。死者がいないことは喜ばしいが、前例を鑑みるに、そんな幸運があったことは片手で足りる。その時でさえ、何人かの重傷者は出ていた。
 その疑念を察したのか、アルティスが詳しい説明のために口を開いた。
「だからこそ、趣が違うと言ったんです」
 ぱさりと、紙の擦れる音。視線を落とした先に資料があるのだろう。既に纏められ、人の手によって整理された情報をアルティスが読み上げた。
「それは唐突に現れたそうです。ご存知かもしれませんが、第48管理世界は多くの古代遺跡が残っています。その遺跡の探索中、新たな部屋が発見されました。まあ、それ自体は珍しいわけではありません。ただ、そこにあったものが、少々厄介でして」
「厄介?」
「詳しいことは解析中です。ですが、分かっている限りでは、それは<魔具>の一種であり、その効用は道の形成。膨大な魔力が込められていた形跡があり、それは既に放出された後だ、と」
「……ということは、高位の悪魔が?」
「ええ」
 悪魔はどこからか喚起されている。それが、短くない時間を経て判明したことだった。フェイトはダンテから粗方の情報を得ていたが、それがそのまま認められるわけもない。その頃はダンテの存在を管理局に知られるわけにもいかなかったという事もある。
 結果、最近になってようやくその事実は容認され、悪魔が<道>を通って人界に出現するという事実に辿り着いた。
 <道>が繋がる場所は多岐に渡る。
 人が大量に死んだ場所。尋常でないほどの恨みや憎しみ、欲望や絶望が集う場所。悪魔の残滓が残る場所。
 夜の深い闇の中でさえ、そこには道が繋がっている。
 その道は狭いものだ。いつ切れるともしれない、ひどく細い糸のような道。なにもせずとも、それはやがて自然に断ち切れる。だが、時としてその道は消えず、それを目敏く見つけた悪魔が押し広げる。
 そうして道を通ることが出来るのは、弱い力しか持たない下位の悪魔だけだ。
 それは張り巡らされた網の隙間を通るに等しい行為。強大な力を持つ悪魔は、世界の狭間でその網に止められる。でなければ、当の昔に人の世は悪魔の手によって滅ぼされていただろう。
 しかし、高位の悪魔が現れる可能性は残っている。
 正しい手順を踏んで儀式を行い、等価の物を代償として召喚する。
 それ自体が魔界との繋がりを持つ<魔具>を媒介とし、多大な魔力を用いて無理やり道を繋げる。
 話を聞くに、今回は後者。
 おまけに、道をつくることだけに特化した魔具に加えて膨大な魔力だ。高位悪魔が召喚されるための条件の全てが満たされていた。
「まるで人間のような姿だったそうです。もっとも、体格が似ていたというだけで、見た目は禍々しい悪魔そのものだったようですが」
「その悪魔は、今どこに?」
 フェイトは、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。動悸が乱れ、顔の血が一気に下がる。
 かつて、一度だけ高位の悪魔が現れたことがあった。現れたのが人のいない辺境世界だったからこそ大事には至らなかったが、刃を交えたフェイトは、その恐ろしさを身をもって理解していた。下位の悪魔が赤子に思えるほどの圧倒的な力は、フェイトに自分の死を確信させた。確かに悟ったのだ。自分はここで死ぬのだと。
 今でさえ、思い返せば身が震える恐怖。崩れ落ちるほどの重く暗い闇の圧力。
 ダンテがいなければ、間違いなく自分の生はそこで終わっていたとフェイトは断言することが出来た。
 そんな存在が、また、訪れた。
 それが冗談ならどれほど良かっただろうか。
「出現して、そしてすぐに消え去ったそうです。一言を残して」
「一言?」
 フェイトの問いに、アルティスが肯いた。
「ここにはいない、と」
 ここにはいない。意味そのままならば、誰かを探しているのだろうか。高位の悪魔が、人界に存在する誰かを。
 それが誰かは知らないが、間違いなく世界で一番不幸な人間だろうと、フェイトは心から同情した。
「そちらにも現れるかもしれません。現時点で悪魔とやり合うのはあなただけですから。くれぐれも注意して下さい」
「……うん、わかった。ありがとう」
「いえいえ」
 にこやかな笑みが、重い話はここまでだと告げていた。
「ところで、週末のご予定は―――」
「あ、もう着いちゃったから切るね。終わったらまた連絡するから」
 ぷちり。
 アルティスの笑顔が、物悲しく消えた。
 こんなことを悪意なくやるものだから、余計に始末の悪いフェイトだった。伊達に天然男泣かせと呼ばれていない。
 切れた通信の先で肩を落とすアルティスがいるとは露とも知らず、フェイトは目の前に佇む2階立ての家屋を見上げた。
 管理局駐在支部。
 管理局員が殺され、悪魔が現れたと言われる場所だった。



 室内に足を踏み入れたフェイトは、充満する淀んだ空気に柳眉を顰めた。
 深き闇に巣食う存在を知る者だけが、無意識の内に感じ取る事の出来るどうしようもない違和感。ねっとりと体に絡みつく、重く暗い、腐敗の空気。
 場を包む濃厚な闇の気配に警戒し、フェイトはバリアジャケットを身に纏った。
 高速機動での戦闘を主体にしているフェイトにとって、狭い室内での戦闘は遠慮したい所だった。
 必ずと言っていいほどに悪魔は複数で現れる。1匹見つけたらなんとやら、だ。あまりに多くが湧き出でれば、この限られた空間での戦闘が苦しい状況になることは予想に容易かった。しかし、ここまで瘴気が高まっている以上、そう経たぬ内に<向こう側>と道が繋がる。戦い難いという理由だけで悪魔を外に出す訳にはいかなかった。
 そもそも、この程度の不利はフェイトにとっては無きに等しい。
 撃つか斬るか。ただその違いがあるだけだ。
 外へと通じる出口を塞ぐようにして、フェイトは扉に身を預けた。
 トン、と軽い衝撃。その動きを追うように、汚れひとつない純白の外衣が揺れ、長く伸びた金糸がさらりと流れる。
 バルディッシュを手にしたまま、フェイトは室内を見回した。
 室内を染め上げていたであろう多量の血液はもう残っていなかった。その痕跡すら魔法で消し去られていた。言われなければ、この場所で、正気を疑う猟奇的事件が起こったなどと誰が気付くだろうか。8名の人間がここで生涯を潰えたなどと、誰が思うだろうか。
 痛いほどの静寂が包む中、フェイトは何も言わずに瞼を閉じた。
 手を合わせることはしない。言葉を紡ぐことも。
 フェイトはただ、静かな祈りを捧げた。
 そうやって、今までに幾度となく繰り返した行いに果たして意味はあるのだろうか。
 自分の行動に疑念がないわけではない。自己満足と言われてしまえば、フェイトに返す言葉はなかった。
 人は死ねばそれまでだ。時の流れの果てに風化し、残された者の記憶の中に生きるしかない。その記憶さえ、いつしか薄れてしまう。
 だからこそ、フェイトは決して忘れまいとした。犠牲となった人々を、悲しみを背負うことになった人々のことを。
 刻んだ記憶は戒めとなる。断ち切れることのない、自分と<悪魔>とを縛り付ける鎖に。
 後悔という言葉で片付けるには、あまりに多くを失った。自分の目の前で儚く消える命の灯火をいくつも見てきた。たったひとりを救えずに何度泣き明かしたことだろう。気付かされた己の無力。理不尽に奪う存在。悲しみの連鎖。
 ―――世界は、いつだってこんなはずじゃないことばっかりだ。
 それは、今では義兄となった人の言葉。
 悪魔と出会って、戦って、失って。そうして、フェイトは初めてその言葉の重みを理解した。
 分かっていた。その言葉の意味を、あの時だって分かっていた。けれどそれは、所詮分かっていた「つもり」だったに過ぎなかった。
 確かに、自分の境遇は恵まれたものではなかったかもしれない。他人から見れば不幸な幼少時代を過ごしたのかもしれない。
 けれど、フェイトはそれを埋め尽くすほどの暖かさを知った。多くの人に支えられ、自分がひとりではないことを教えられた。
 人はいつだって自分の幸せに気付いていない。どれほど報われているかを、知ろうとしない。
 それは堕落だ。
 慢心に溺れた弱い心。己の幸運に頼りきった、ただの馬鹿。
 そして、昔の自分自身。
 幸せに溺れていた。ありもしない未来に縋っていた。その驕りが、ひとりの命を奪った。自分の過信が、ひとりの幸せを永遠に失くした。
 だから、これは償いなのだ。決して許されることのない罪を背負ったまま、悪魔と生きること。この身の続く限り戦い続ける事。それが、自分に科した終わることのない償い。
 あの日から泣く事をやめた。自分を責める事も。
 ただ、忘れない。
 悪魔の影に散った人々を。涙を零す人々を。自分の甘さ故に、失くしてしまったものを。
 決して、忘れない。
 ―――瞼を開く。
 足を踏み入れたその時よりも、さらに濃厚となった暗い気配。いつの間にか、部屋を深い闇が覆っていた。遠くに聞こえていた子供達の声も、市場の喧騒も、もう聞こえなかった。重い沈黙の中に、フェイトはひとり立っていた。
 反動を付けて扉から身を起こす。
 人の住む世界を、不吉な闇が塗り替えていく。その部屋はもう、見知らぬ別世界へと姿を変えていた。
 抑えようのない感情が湧き上がる。それは、人間の本能の奥深く刻み込まれた原初の恐怖だった。
 幾度となく悪魔と相対し、悉くを打ち倒してきたフェイトですら、その恐怖に慣れる事はない。ただ、それに耐える方法を身に付けただけだ。それが人間という矮小な存在の限界だった。
 バルディッシュを握り締め、フェイトは身体の末端神経の先まで魔力を巡らせる。
 闇の恐怖を飲み込み、身に絡みつく淀んだ空気を振り払うように。フェイトは深く息を吸い、吐き出す。
 その時だった。
 ずるり、と。
 床に生まれた一際深い闇の影から、一体の木人形が這い出した。フェイトを優に超える体躯は、玩具とするにはあまりに大きい。顔に当たる部分には表情の無い不気味な仮面が取り付けてある。そして、人形には持ち得るはずのないおぞましい生気。
 それは闇の具現だった。
 下級に位置する力無き悪魔は、確固たる実体を持っていない。
 それらが地上に出現するためには、何らかの器物や動物を依代としなければならないのだ。フェイトの眼前に現れた木人形は、紛う事なき悪魔の器だった。
 まるで操り人形のように佇む姿に力は感じられない。一見すれば、与し易いただの木偶に思われた。しかし、フェイトに一切の油断は無かった。
 不意に人形の身体が動いた。何かに吊り上げられているかのように、ひどく不自然で緩慢な歩み。ぎしぎしと軋む関節を動かして、人形はフェイトへと歩み寄る。
 ありはしないというのに、仮面の眼孔がフェイトを貫いた。
 真っ向から立ち向かうように、フェイトは人形の前に悠然と立っていた。
 やがて、一足の間合いを挟んで2者は相対した。
 一瞬の静寂。
 先に動いたのは木人形だった。
 先程までの緩慢さとは比べ物にならない、獲物を前にした獣のように俊敏な動き。人間には有り得ない奇怪な形に関節を曲げ、錆びた短剣を握った枯れ木の腕が振り上げられる。
 一呼吸にも満たない間に振り下ろされた凶刃はフェイトの身体に深く刺し込まれ、赤い鮮血が噴き上がる―――はずだった。
「女の子には優しく、って教わらなかった?」
 操られた人形の腕が落ちるよりも早く、金色の魔力弾が人形の頭を吹き飛ばした。
 フェイトの揶揄と共に、木片を派手に飛散させて人形が崩れ落ちる。床にこぼれた短剣が甲高い金属音を響かせた。
 倒れ伏した人形は灰となり、やがてその灰も跡形無く消える。まるで、そこには最初から何も無かったかのように。
 命の絶えた悪魔がその残滓を人の世に残す事はない。映像媒介に映る事もまた、同様に。結果、管理局は悪魔の存在を認めるに足る証拠を得られずにいた。
 3年の時を経て尚、未だに管理局が有効な対策を行えていない理由のひとつだった。
 その明確な理由は分かっていない。ダンテに言わせれば「シャイなんだろ」とのことだが、フェイトが納得するような理由でないことは言うに及ばない。
 しかしフェイトが推測するとすれば、悪魔はきっと<幻想>でなければならないからだ。
 人間は、自分で理解出来ないことを認めない。この世の全てに明確な<存在>を求める。形あるものに、目に見えぬ物に、想像の産物にさえ。名を与え、存在を確立する。
 自らの住む星に。星の漂う広大な領域に。時の流れに。時の創り上げた空間に。
 貪欲にこの世の全てを理解しようとする。理解出来ないモノを失くそうとする。
 だからこそ、<悪魔>は本当の意味で人に理解されてはならないのだ。その存在は、常に人の空想であり、幻想であり、悪夢で在り続けなければならない。人は理解出来ないモノにこそ恐怖を抱くのだから。
「宇宙」と名付けた広大な無の世界に、人はいつしか足を踏み入れた。
「次元」と名付けた無限の時の世界を、人はいつしか渡る術を手に入れた。
 人間は無限の可能性を持っている。全てを乗り越え、手中に収め、己の糧と為す貪欲な可能性を。
 不明の事象に存在を与え、全てを解明する力を持った存在。
 故に、悪魔は人間に理解されてはならないのだ。
 悪魔はすでに<名前>が与えられている。ならば、いつしか人は悪魔という存在を理解してしまうかもしれない。悪魔すら飲み込み、糧としてしまうかもしれない。
 人間の可能性の力に恐怖した古の悪魔は、全てを理解される前に人間を滅ぼそうとした。可能性が可能性であるうちに握り潰そうとした。
 そして―――人の可能性に魅せられた一人の悪魔の前に、打ち倒された。
 人が悪魔を恐れるように、悪魔もまた、どこかで人を恐れている。
 二者にあって、しかし違うのは、その恐怖を<理解>できるかどうか。
 その力はきっと、人間だけに許されたものだった。強大な存在に、闇の存在に恐怖し、泣き叫び、しかしそれを理解しようとする。それは決して相成れないはずの真逆のもの。だが、その真逆を含有しているからこそ、人はどうしようなく強いのだ。
 人は己の弱さを理解した上で、ならそれをどうすればいいのかと方法を探す。
 質量兵器を創り、魔法を見つけ出した。
 それは<悪魔>と戦う術となる。
 血と記憶の奥底に刻まれた恐怖は、気付かぬ内に悪魔を<理解>しようとしていた。立ち向かう手段を探していた。
 そして今、フェイトの手にはそれがあった。魔法と名付けられた奇跡の具現。人間の見出した光の力。
 ようやく<悪魔>を理解する時が来たのだ。
 その事実に抗うように、幾体もの木人形が姿を現す。広いとは言えない室内を埋めつくすように、一体、また一体と。
 動揺も無く、フェイトはその光景を眺めていた。
 まだ、人は弱い。悪魔に容易く殺されてしまう存在だ。しかし、それもやがて過去となるだろう。時の流れが止まる事はない。多くの犠牲の先で、人はきっと力を手に入れる。悪魔を理解し、それと戦うための力を。
 それはきっと、質量兵器でも魔法でもない。もっと別の、形の無い力。その力を手にした時、人は深き闇を祓うことが出来るはずだ。
 だから、それまでは。
「私が相手をしてあげる」
 滾る光を紅瞳に宿し、フェイトは毅然とバルディッシュを構えた。ばちりと紫電が奔り、金色の閃光が刃を生む。それは魔力で形作られた大鎌だった。澄んだ光の刃が、深く暗い闇の中に暖かな光を差し込んだ。
 光と闇。
 それはコインの裏表のように、決して切り離す事は出来ない。
 交じり合うことはありえない。潰し合うことでしか存在しない。
 だから、争う理由はそれで十分だった。そこに感情は挟まない。
 憎しみは光を暗く染める。
 掲げる正義は闇の前では妄信に過ぎない。
 それはそうある。
 だから戦う。それだけだ。
 フェイトは紅の瞳で人形を射抜く。
 人形は瞳のない眼孔をフェイトへ向ける。
 多くの人が犠牲となった。何度も当たり前に繰り返される日々の中で、いつかこの身も影に散るだろう。やがて死んでいく人間なんてどこにもいない。そこにはただ、今を生きる人間がいるだけだ。
 その先の未来に、いつか、きっと―――。
 けれどその目に希望はなく、しかしそこに絶望はない。
 ただ今を生きるために、フェイトは床を蹴った。

 To be continued...
モクジ

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