モクジ

  異世界で魔術師  


 私は悪魔なんだよ、と野暮ったい眼鏡をつけたおっさんは言った。
 はあそうですか、と野暮ったい服装をした僕は答えた。
「おや、驚かないんだね。疑いもしない。普通、人間は私のような存在を見ると目の色を変えるのだが」
「この現状を見て信じるなという方が無理だと思いますけど」
 僕は辺りを見回した。そこそこ名の知れたコーヒーチェーンの店内でありながら、客はひとりもいない。真昼間ですぐそこをカップルや親子連れが平然と歩いているのに、この店の中には誰も足を踏み入れようとはせず、目を向ける人すらいない。まるでここには何も存在しないかのような振る舞いだった。
 6階建てのショッピングモールの一階、片隅。休憩がてらにこの店に入って、カウンターでコーヒーを頼んだところ、店員としてコーヒーを売っていた眼前のおっさんに声をかけられたのがこの異常の始まりに違いないだろう。
「ふむ、君との話は早そうだ。助かるよ」
 頭に上にあった、ロゴ入りのダサい帽子をそこら辺に放って、おっさんは手近な椅子に腰掛けた。ついでにテーブルの上にあったコーヒーを飲む。
「まあ座りたまえ。ここには俗に言う『結界』が張ってあってね。一般人は立ち入れない。ゆっくり話そうじゃないか」
「結界ですか」
「君たちには馴染み深いものだろう? なんだったかな、ほら、テレビで流れている絵が動く」
「アニメ?」
「そう、アニメだ。それを見て覚えたものでね」
 何やら暇つぶしにはなりそうだったので、僕はおっさんの前に座った。ちょうど僕の前にもコーヒーがあったので、勝手に頂くことにする。まずい。
「回りくどい話は嫌いでね。単刀直入に言うが」
 おっさんは飲み干したカップを後ろに放り投げた。
「君の人生をもらえないかな?」
 自称悪魔のおっさんは身を乗り出し、指を組んでテーブルに肘を突いた。黒縁眼鏡の向こうの瞳は、ひどく真剣なように思えた。驚いたことに僕が見つめている先で、茶色の瞳は鮮やかな紅に色を変えていた。それを見ておっさんが人間じゃないことを確信した。ますます面白いことになりそうだった。
 僕は背もたれに体重を預け、腹の前で指を組んだ。
「それはつまり、僕は死ぬってことですか?」
「いや、いや」おっさんは首を振った。「君の言う『死ぬ』という現象を生命活動の停止と定義するのであれば、そうではない」
「なら、人生をもらうというのは?」
 コーヒーを飲む。やはりまずい。ブラックでコーヒーとか信じられない。
「その言葉どおりの意味だよ。君の人生を、この世界に定められた存在を、譲り受けたいということだ」
「続けてください」
「私たち悪魔はね、いつも退屈している。なにしろ魔界に娯楽はなくてね。やることと言えば、人界を観察するか天使と殺し合うか悪魔と殺し合うか、まあそんなものだ。だから時々、私のようなあまりの退屈さに嫌気のさした悪魔が人の世に紛れ込もうとやってくる」
「……となると、もしかして歴史上の偉人なんかにも?」
「大量殺人犯とか人を超えた能力を発揮した者などの大半は、おそらく悪魔だろうね」
 それはびっくりだ。いや、むしろ納得だろうか。
 悪魔は横のテーブルからまたコーヒーを取り、ぐいっと呷った。
「しかし、もちろんルールが存在する。それは『存在の交換』だ」
「存在の交換?」
「この世界には神の定めた理がある。その理がある以上、悪魔は悪魔のままではこの世界に長く存在できない。私の力でも、30分がせいぜいだ。しかも、この状態で無駄に騒ぐと存在を消されてしまうのだよ。だから人間と取引をするわけだ。存在を貰い受けることができれば、悪魔でもこの世界で遊ぶことができるからね」おっさんはクツクツと笑った。「人の皮を被った悪魔という、文字通りの存在になるのさ」
「存在を交換するとなると、僕は悪魔になるわけですか?」
「便宜上はそうなるね。いや、話が早くて助かるよ」
 僕が言葉を返そうと口を開く前に、おっさんはセリフを続ける。
「しかし、悪魔になったからと言って魔界に住んでもらうわけにはいかない。なにしろ、悪魔の存在を宿したとしても人間は人間でしかない。残念ながら、人間という『存在』は悪魔ほど簡単に変わったりは出来ないんだよ。悪魔は人間になれるが、人間は人間でしかない」
 む、ちょっと話がややこしくなってきた。
「なら僕はどうなるんです?」
 おっさんは一拍溜めて、僕ににやりと笑いかけた。
「この世界の君の存在は私が貰いうけ、私の力を持った君は別の世界で暮らす。これでどうだろう」
 それから、僕と悪魔は手短に会話を続けた。なにしろ悪魔の滞在時間は30分しかない。
 悪魔と同じように日々に退屈以上の感情を持ち得ていなかった僕は、悪魔と取引することにためらいはなかった。自分の能力を考えれば、大した人生を送れるとも思えなかったからだ。
 両親はすでに死に、兄弟姉妹はおらず、親戚とはほとんど関わりが無く、友人もいない。
 そんな僕は、悪魔が成り代わるにはひどく優良な物件だったらしい。
「じゃあ、私も楽しませてもらうから、君も好きなだけ楽しむといい」
「ぼちぼちやります」
 そして悪魔とは別れた。
 輪郭がなくなってぐちゃぐちゃになっていく視界と、体中から何かが抜け落ちていく感覚。もしかしたら悪魔に騙されたかな、と考えが過ぎったが、それはそれで構わないとも思った。今まで僕は、死ぬ理由がないというだけで生きてきた。死ぬのが苦しそうだからという理由で自殺はしなかった。こんなに安らかに死ねるのであれば、それはそれで本望だった。
 おやすみ、と誰に呟くでもなく、僕は瞼を下ろした。


 悪魔は契約をしっかり履行してくれたらしい。ふと目が覚めると、そこは見覚えのない石造りの路地裏だった。暗く、じめじめとして、何かが腐り果てた臭いが漂っていた。なだらかな下り坂の半ばで、僕は壁に背を預けて座り込んでいた。頭を壁に擦り付けるようにして見上げると、染み汚れの目立つ壁の向こうに、青空が広がっている。悪魔は別の世界と表現していたが、それが本当だとすれば、ここは異世界ということになる。異世界でも空は青いのか。そんなことを考えた。
 立ち上がり、まずは左右を確かめた。
 左手は下っていく道。所々で僕と同じように、壁にもたれ掛かる人の姿があった。生きているのかは分からないが、微動だにしない。先に光は見えず、道は途中で暗闇に飲み込まれていた。
 右手は上っていく道。壁にはさまれた狭い視界の先に、行き交う人たちの姿が見える。がやがやと遠く聞こえる喧騒は、向こうから届くものに違いなかった。ここからでも彩り豊かな髪をした人が見えて、それでもう異世界に違いないんだなと確信した。
 さて、と僕は手を打ち合わせた。
 どちらに行こうか。
 ここは人生の分岐路というやつで、右か左かによって異世界生活の方向性が決まるだろう。現状、僕には先立つものがなにもない。お金も、貴金属も。つまり文無しで、だとすれば食事にもあり付けないし、宿屋に泊まることもできない。とにかく優先するべきは金銭の入手だった。
 やはり、無難に大通りに出るべきだろうか。何かを売るにしても買うにしても、人がいなければどうにもならない。裏路地というのも心惹かれるものがあったけれど、またの機会にすることにした。
 右手に向かって足を進めようとして、僕はふと思い出した。
「そういえば魔法が使えるんだっけ」
 『魔』法というだけあって、悪魔は魔法が使えるらしい。正確には魔力をぶっ放すだけの単純なものらしいのだが、悪魔の力を交換した僕ならそんなことにはならない。
「魔法とは想像であり創造だ。君がそれを魔法として強く思い描けるのであれば、できないことはないだろう」
 悪魔のおっさんはそう言っていた。
 それを確かめるために、僕は足を止め、眼前に人差し指を掲げた。
 魔法はイメージ。指の先にライターのような小さな炎が灯るのを思い描く。
 魔力の使い方というのはよく分からないので、とりあえずみょみょみょと集中して、呟いた。
「ファイア」
 ぼッ、と。
 指先から溢れるように炎が燃え上がった。おお、と思わず声が漏れる。まさか本当に魔法が使えるとは。ちょっとテンションが上がった。
 こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけどってやつである。とりあえず全力でお話聞かせてができるかどうか試してみたい。町ひとつ消し飛びそうだけど。
 指先で変わらず燃える炎をひとしきり眺めてから、それを消した。
 魔法が使えるのだ。きっとなんとかなるだろう。ファンタジーに欠かすことの出来ない、モンスターがいるのかどうか、ギルドがあるのかどうか。そこらへんも確かめなければならない。やることはたくさんあった。やりたいこともある。
 よし、と気合を入れなおし、僕は一歩を踏み出した。今までにないくらい足取りは軽い。自分にらしくないほどやる気が満ちているのを感じる。自然と笑みが浮かんだ。
 これからの人生、面白くなりそうだ。今ばかりは、心からそう思えた。


 2


 80日が過ぎた。この世界では40日で一ヶ月となっているので、こちらで換算すれば2ヶ月ということになる。
 あの路地裏で一歩を踏み出したとき、僕はきっとどうにかなるだろうという楽観を持っていた。そして事実、どうにかなった。魔法というものは実に便利で、これがあるだけで全ての問題は解決できたと言っても過言ではなかった。
 路地裏から出た僕はまず、ファンタジーの定番である冒険者ギルドを探した。思ったより簡単に見つかったそこで、さっさと冒険者登録。言葉が通じないし、文字が読めないし書けないしだったけれど、もちろん魔法で万事解決した。魔法超便利。
 冒険者登録するだけで3級市民証とかいう身分証明書がもらえたのは僥倖だったし、登録するのに必要なのが名前だけだったのも最高だった。冒険者は一種の消耗品に近いようなので、低ランクの冒険者の扱いはひどく適当らしい。名前と紋様の刻まれた薄いプレートを渡され、「ギルドをご利用の際には必ず提示してください。身分証でもあるので、決してなくさないように」と顔も見ずに言われただけだった。
 ごつい筋肉ダルマや、煌びやかな白鎧の騎士、獣耳の姉ちゃん、長いローブと杖の魔法使いと、これ以上ないほどのファンタジーに目を奪われながら、僕はクエストが張り出されている掲示板を見上げた。冒険者にはランクというものがあり、ランク以上のクエストは受理できないようだった。僕のプレートにはFと記載されているので、恐らくFが最低ランクなのだろう。
 Fランクの掲示板に並ぶクエスト内容はまさに初心者向けだった。薬草の採取、荷物運び、引越しの手伝い等、アルバイト募集みたいなものだ。時折、赤字で「討伐」と書かれたものもあったのだが、僕にはモンスターの名前と姿が分からなかった。
 それでも幸いにして「ゴブリン」という名前を見つけたので、僕の想像するゴブリンと一緒であることを祈りつつ挑戦してみることにした。
 討伐内容は街道に現れるゴブリンを1匹以上討伐すること。一匹につきラブル銀貨一枚の報酬。
 ラブル銀貨一枚が日本円でいくらなのかは分からないが、宿屋と食事代くらいにはなるだろうと信じて、そのメモの下にある赤銅色のプレートを取った。これを持っていけばクエストを受理できるらしい。
 クエストプレートと僕の持つプレートを受け取ったギルドのおっさんは、気だるげに一枚の紙と薄汚れた水晶を差し出した。紙には簡単な地図と、討伐対象であるゴブリンの絵が描かれていた。親切だ。水晶の方は討伐した証に、モンスターの死体を回収できるものらしい。死体の4割以上がなければ報酬は出せないので気をつけるようにと言われた。消し炭とかじゃだめなのか。
 そうして、一宿一飯のために初めて命のやり取りをすることになったのだけれど、これがまあ案外キツい。生き物を殺すというのもそうだし、自分の半分ほどの背丈をした緑色で目のデカイそいつと対面するのもキツい。ナイフ片手に突っ込んでくるので、最初はビビってつい反射的に燃やし尽くしてしまった。魔法の矢で遠くからちくちくやってみると次第に慣れてきて、だんだん魔法で戦うのが楽しくなったりもして、その日のうちにラブル銀貨14枚を手に入れることができたのだった。
 それから僕は、地道にクエストを消化しながら毎日を送っていた。本を買い、異世界のアイテムを買い、興味本位で娼館に行って童貞にさよならをしたりである。異世界にあるものは全てが新鮮で、飽きることはなかった。世界が輝いているようだった。
 僕のやってきた街は大きくはないが小さくもなかった。しばらくはここでやっていこうと思っていた。
 ランクも短期間にCまで上がり、周りからは有力なルーキーとしてちょっとは有名になりつつあった。
 僕は調子に乗っていた。悪魔から譲り受けた魔法という力に溺れていた。異世界の生活に思慮が削られていた。自分は何だってできると信じていた。
 だからまあ、めんどくさいことになってしまったのは、やはり必然のことだったのかもしれない。
 ある日、女の子に絡んでいる2人連れの男を見かけた。女の子が可愛かったこともあって、僕は是非助けねばと鼻息荒く向かっていった。大丈夫、魔法がある。チンピラには負けない。
 案の定チンピラと揉めることになったが、軽く魔法で叩き伏せてやった。近くの店からチンピラの仲間らしい集団が出てきてが、それも魔法で吹っ飛ばした。地に倒れる男たちと、遠巻きにこちらを窺う野次馬。自分の強さに酔っていた僕は、止して置けばいいのに、わざわざ捨て台詞まで残してそこを去った。
 僕はこう言わざるを得ない。
 ――あの時の僕よ、死ね。
 気分よくぼっこぼこにしたチンピラは、その街の裏を仕切るマフィアというかギャングというか、そういう軽い気持ちで関わっちゃまずいお相手だったのである。
 そこからの話は早かった。
 まず、僕のところにやってくるチンピラ集団。そこで骨のひとつでも差し出しておけばよかったのだが、もちろん痛いのはいやなのでぼこぼこにして追い返した。この頃はまだ余裕があった。
 正面は無理と悟った向こうさんは、今度は奇襲してくるようになった。夜討ち朝駆け当たり前で、外を歩くときには背中に気をつけねばならず、牛乳売りの少年さえ敵だった。お陰で、常に魔法障壁を張り巡らすことになった。ここらへんからだんだんと神経がやられていった。
 次いで町中の店から、僕にだけ食料品やアイテムが売られなくなった。もちろんマフィアが裏で手を回していたからだ。外を出歩くだけで魔術師が僕に攻撃魔術をぶっ放し、いかつい騎士甲冑のおっさんが決闘を申し込んでくる。もちろんマフィアが裏で僕に懸賞金をかけたからだ。ここらへんで、もうどうしようかと自暴自棄になりつつあった。
 そしてついに、僕が頻繁に通っていた娼館すら出入りできなくなったのだ。ここに至ってブチ切れる僕であった。
 そこからはマフィアとの全面抗争だった。味方は僕ひとりだが、幸いにもどんな魔法も使えるチートがある。悪魔の魔力は底知らずなので、一日中戦える。マフィアの陰険な嫌がらせに精神がやられていた僕は、そのまま裏路地に突っ込み、マフィアの溜まり場を片っ端から吹き飛ばした。
 2日後、マフィアのボスへたどり着く。ボスごと抹殺すれば全部片付くだろうと思ったのだが、なんと驚き、ここにいるマフィアは支部でしかなかったのだ。もっとでかい本部が別にあって、例え私を倒そうと第二第三の魔王が――ってやつである。
 魔法で生み出した氷の剣をボスの首に突きつけながら、僕は「お話」をした。
 お前の命は見逃してやるからもう狙ってくんな。
 先に手を出したのはてめえだろうが。
 女の子に馬鹿が頭悪いことしてたからだろ。手下の首輪くらいしっかり締めとけ。
 んなことは関係ねえ。こっちは喧嘩売られたんだ。落とし前もなしに話が片付くと思うな。
 じゃあこれやるからそれで終わりにしてくれ。この街も出て行くからそれでいいだろ。
 僕は冒険者プレートを差し出したのである。これがあれば銀行から僕の全財産を引き出せるし、Cランクのプレートなら後ろ暗いことにもそれなりに活用できるだろう。
 全財産と居場所を失ったけれど、とりあえず、マフィアとのごたごたは片付いた。
 ひどく高い授業料だったと言わざるを得ない。
 調子に乗るとろくでもないことにしかならない。不必要に目立つと不必要な存在がやってくる。集団を相手にすると、単純な殴り合いでは済まない話になる。マフィアとは事を構えるな。
 日本円に換算してざっと500万ほどのものを失って、僕はいくつかの真理を学んだのであった。


 逃げるように住み慣れた街を出た僕は、どうせならとこの国の首都に向かった。乗り合い馬車で3週間近い時間が掛かったが、首都だけあってその賑わいは筆舌に尽くしがたいものがあった。自分の浅はかな行動でめんどくさいことになってしまったがゆえにちょっと落ち込んでいたのだが、そんな気分は、山道から見た眼下に広がる首都の大きさに全て吹っ飛んでしまった。高い城壁に囲まれた中には、時計塔や呆れるほどに巨大な木が見えた。荷物を吊り下げた竜が飛び交っていた。遠くには白い雪を被った山々が広がり、空は果てしなく続いていた。まさに雄大。まさにファンタジー。その光景が、なんでかとても美しく思えて、僕は柄にも無く感動してしまった。
 首都に入ってまず始めにしたことは、冒険者ギルドに向かうことだった。プレートはギャングへの手切れ金として渡してしまったので、今の僕は身分証すら持っていなかった。
 またFランクから始めるのもだるいことこの上ないので、ランク試験を受けてさっさとCランクで登録することにした。どうせならAにしようかと思ったけれど、登録していきなりAよりは、Cから頑張ってAのほうが目立たない。必要以上に目立つとろくなことがないということを、僕はしっかり学習していた。
 Cランクのプレートを受け取った後、僕はそのままクエストを受けることにした。ここまでの道中でお金も底を付きかけていた。
 お風呂に入りたいし、おいしいご飯が食べたいし、やわらかいベッドで寝たい。やりたいことはたくさんあったけれど、とにかく必要なのはお金、お金、お金である。お金さえあればなんでもできるし、奴隷だって買える。世知辛い世の中だけれど、分かりやすくてこれはこれで悪くない。
 幸いにして悪魔譲りの魔力で魔法を使い放題の僕は、お金を稼ぐのには苦労しないのである。うはは。
 と、内心で笑いながら、廊下を行き交う冒険者たちとすれ違う。
 ドロップイヤーの兎さん。熊みたいな獣人。虎顔。長耳エルフ。髭面のドワーフ。ちょっと歩くだけでもそれだけのファンタジーがあった。どうやらこの世界では人間よりも亜人の方が数が多いようで、純粋な人間を探す方が難しかったりする。
 美人のエルフさんを目で追いながらも歩き続けると、ようやくクエストが貼られた掲示板に辿り着いた。
 さすが首都だけあって、ギルドも馬鹿みたいに大きい。Cランクのクエストだけでもかなりの数があるし、それがAからFまであるのだから、クエスト掲示板だけでも100m近い長さがあった。
 クエストを探す人たちに混じるように、僕も掲示板を仰ぎ見た。高さが3mくらいある。上のはどうやって取るのだろう、と首を傾げてしまう。辺りを探すが、はしごや脚立のようなものは見つからない。
「どうかなさいましたか?」
 後ろから声をかけられ、びくりと肩が震えた。知り合いなんぞいないこの街で、まさか声をかけられるとは思ってもみなかったからだ。振り返ってみると、そこには女の子が立っていた。深い海のような青い髪が、腰の辺りまですとんと伸びているのが印象的だった。白い制服と青のスカート。細い足は黒タイツで包まれている。胸元には小さな名札があった。I・ブランデル。
 そこまで観察して、僕は納得した。白い制服と名札はギルド職員の証である。きょろきょろとしていた僕が不自然に目立ったのだろう。
 ああ、だか、いえ、だか、自分でも判別に困るような返事を誤魔化すように、僕は言葉を続けた。
「どうということはないんですけど、上のクエストプレートはどうやってとればいいのかな、と思って」
「なるほど、そうでしたか。当ギルドのご利用は初めてですか?」
「ええ、まあ。ついさっき登録したばかりなので」
「でしたらご説明させていただきますね」
 彼女はにこりと笑みを浮かべた。もちろん営業スマイルなのだろうけれど、ちょっと見惚れてしまう。この世界はかわいい女の子が多いのだ、本当に。
 ブランデルさんは「あちらをご覧ください」と手のひらで掲示板を示した。
「クエストにはそれぞれ番号が振られてあるのがお分かり頂けますか?」
「ああ、うん」
 確かに、右上に番号札が見える。この辺りは20番台のようだった。
「クエスト番号が決まりましたら、こちらの水晶に向かって」
 壁に埋め込まれた紫水晶まで歩いていき、彼女はそれを見上げた。種族間の平均を採ったのだろうか、その水晶は彼女からすると少し高すぎるようだった。ブランデルさんは壁に手をついてから、つま先を伸ばした。
「テスタ、26番」
 声に反応するように水晶が明滅し、水晶の下に設置された籠の中にプレートが現れた。装飾かと思っていたのだけれど、あの水晶はちゃんとファンタジー的な意味があったらしい。
 ブランデルさんはプレートを手に振り返り、驚いている僕を見てちょっとだけ自慢げに笑った。
「と、このようにするんです。『テスタ、何番』とこの水晶に向かって声を掛けるだけで構いません。戻すときはこの籠の中にプレートを置いてください。自動で返却されます」
 彼女が籠の中にプレートを置くと、数秒もせずに再び水晶が明滅した。プレートは細かい光の粒子になって消えてしまう。
 文明としては中世辺りかと思っていたのだけれど、こういうところは現代の科学を軽く上回っているようだ。魔法がそれを可能としているのだろうが、それ故にどこか歪に発展しているように思えてしまう。
「説明は以上です。なにかご質問はありますか?」
「いえ、よく分かりました。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げると、ブランデルさんは少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに微笑み返してくれた。
「お役に立てたのであれば幸いです」
 御用の際には気軽に声を掛けてくださいね、と残して、ブランデルさんは歩いて行った。背中で揺れる青い髪を見送って、僕は掲示板に顔を戻した。Cランクの討伐クエストを眺め、適当に目についたものを選ぶ。
「テスタ、22番」
 水晶から現れたプレートを取り、僕は足を進めた。


 3


「えー……っと、雷よ雷よ、我が手に宿れ……んで、集え集え、我に仇なす者に降り注げ、打ち砕け、打ち鳴らせ……ああもうめんどいな……汝は光、汝は怒り、汝は槍となる……あ、やっと終わった――【雷鳴る槍】」
 分厚く重い魔導書を片手に詠唱すること30秒、初級攻撃魔術「雷の章−第7節」とやらがようやく完成した。目の前に、大きな電撃十字槍が現れる。絶えずバチバチと放電していて、見るからに凶悪そうな魔術だった。視線の先にいる水色の熊もそれを本能で悟ったらしく、巨体を動かして慌てて逃げ出す。しかし、今まで散々追い掛け回された以上、見逃すという選択肢はない。それに、あの熊は今までに4人の人間を喰い殺した魔物だった。さらに言えば今回のクエストの目標でもある。
 逃げる熊の背に狙いを定め、滞空する雷槍を開放した。
 槍は驚くほどの速さで飛んでいき、着弾した。パッ、ドーン、バリバリーと、本物の落雷さながらの光景が広がった。視線の先で、背中に槍を生やした熊が倒れ伏す。ぷすぷすと白煙が立ち上っている。あれは死んだな、とひどく冷静に判断する自分がいた。
 ほっ、と息を吐いて、僕は今まで登ってた木から降りた。魔術を使うにも詠唱する時間がなく、仕方なく木の上に退避していた。
「やっぱり不便だよね、この世界の魔術って」
 僕の場合、大抵の魔法は詠唱なく発動できる。あるいは、詠唱するほどの魔法を使う必要がない、といったほうが正しいかもしれない。魔力がほぼ無尽蔵にあるので、基本的にすべて「今のはメラゾーマではない。メラだ」になるからだ。
 しかし、この世界の魔術と呼ばれるものは、もちろんそんなに便利なものではない。魔術を使うには詠唱が必要不可欠であり、不用意に魔力を込めると爆発する。強いことは強いのだが、とかく不便だった。完全に固定砲台である。おまけに、詠唱するための呪文も長いし覚えるのもめんどうだしであり、僕は分厚い魔導書を見ながら詠唱するしかないのであった。
 なぜ不便な魔術をここまでして使わなければならないかというと、目立たないため、という理由につきる。
 マフィアとの抗争の中で、僕の魔法に言及する人が多かった。今までの魔術にあり得ないことを、僕はなんの自覚もなしにやり過ぎてしまった。一応、決着はついたと思う。だがマフィアから誰に情報が渡るかわからないし、変な人に目をつけられても困る。好き勝手に使わないにこしたことはないだろう。そのせいでずいぶんと面倒なことをしているのだけれど、それは仕方ない。
 広辞苑のような本を抱えながら、熊の近くまで歩み寄る。動かないことを確認して、未だに突き刺さったままの雷槍を消した。この世界での理論上では、余った魔力は僕の中に戻ったらしいのだけれど、まったく分からなかった。海にコップ一杯の水を入れたくらいの話なので、誤差みたいなものだ。
「回収っと。これで終わりかな」
 ギルドから支給された水晶に熊の死体を放り込み、魔導書と一緒にバッグに片付けた。あとはギルドに戻ればクエストは終了、晴れて金貨12枚を手に入れることができる。
 小腹が空いたので、バッグから干し肉の包みを取り出した。中には十枚ほどの干し肉が入っていた。一枚はやや分厚いテレホンカード程度の大きさだ。一枚を取り出し、齧ると、肉の味よりも塩辛さを感じた。肉は固く、簡単には噛み切れなかった。美味しくない。
 仕方なくガムのように噛み締めながら、包みを閉じてバッグの中に戻した。ずっしりと重たくなったバッグを肩に掛け、さっさと街に帰ろうとして、足を止めた。
「……鳴き声?」
 木々の間から、動物の鳴き声が聞こえた。弱々しく、かすれていたように思えた。少し迷ってから、僕は森の奥に足を進めた。
 数分と経たずに声の主を見つけることができた。木の根元に、くすんだ灰色をした丸い毛玉が転がっている。この世界には魔物と呼ばれる存在がいるため、迂闊に近寄ることはできない。しばらくじっと観察してみたけれど、毛玉はぴくりとも動かなかった。じっと立っているのにも飽きて、僕は不可視の魔法障壁を展開したまま、その毛玉に近づいていった。
 もう手が届きそう、というところまで来たとき、毛玉がかすかに動いた。もぞもぞと顔をあげ、つぶらな瞳で僕を見上げた。小さな頭の上に、兎のような長い耳が生えていた。子猫の体と兎の耳、それに犬の尻尾を合体させて、豊かな毛をくっつけたらこんな姿になるかもしれない。かなり、かわいい。
 不思議な小動物の前にしゃがむ。逃げるようなこともなく、毛玉はじっとしたままだった。小さな瞳と見つめ合っていると、毛玉は「きゅ?」と首をかしげ、長い耳がぺたんと揺れた。
 恐ろしい破壊力だった。あまりの愛らしさに、少し意識が飛んでいた。
 そろそろと手を伸ばしてみるが、毛玉は逃げようとはしなかった。背中をさするように撫でてみると、その手触りの良さに驚かされた。すべすべとしていながらしっとりとしていて、もきゅもきゅさを失わずにさらりと流れるのであった。無意識のうちに何度も手を動かしてしまう。
「きゅ!」
「あ、ごめん」
 抗議の声で我に返る。ついつい夢中になってしまった。
 名残惜しむように最後にひと撫ですると、指先に湿った感触があった。指を見ると、赤い液体。毛玉の姿をよくよく見てみると、どうやら後ろ足を怪我しているようだった。
「逃げないんじゃなくて、逃げられなかったわけね……」
 これは悪いことをしてしまった。頭をできるだけ優しく撫でてから、僕はバッグを降ろして魔導書を取り出した。
 存在している魔術のほとんどを網羅している、と、商人は言っていた。さすがにそれは大言だろうが、まさか回復魔術がないということはないだろう。
 本を抱える手が辛いので、地面に置いてページを捲る。目次があればすぐなのだけれど、これほどの分厚さだというのに、なぜかこの本に目次はなかった。地べたに座り込みながら、黙々とページを捲る僕。それを不思議そうな顔で見つめる毛玉。
 半径65mを焦土にする魔術、耳の中のかゆみが止まらなくなる魔術、金貨が銀貨になる魔術、生ごみが土になる魔術。どれもこれも今は必要ないものばかりだった。いい加減、見つからないことに飽きてきた頃、ようやく治癒魔術を見つけた。
「えーと、人体復元、血止め、傷跡を無くす、にきびの治療、育毛……お、あった。小動物への治癒」
 効用にざっと目を通して、問題がないことを確認し、詠唱する。ケアルとかホイミでもいいのだが、普段からこうしてこの世界の魔術に慣れておいた方が良いだろう。
「【小さき者に癒しを】」
 すると、光を砕いたような小さな輝きが無数に舞って、毛玉の体に降り注いだ。
「治ったの……かな?」
 すると、今まで全く動かなかった毛玉がちょこりと立ち上がり、後ろ足を見るようにその場でくるくると回った。成功したらしい。毛玉はひとしきり満足すると、その場にちょこんと腰を降ろし、僕を見上げて「きゅっ」とお礼を言った。どういたしまして、と返事をして、魔導書を閉じる。
 それをバッグの中に戻すときに、さっき収めたばかりの干し肉の包みが目についた。僕にはもう食べる気がなかったので、ゴミにするよりはいいだろうと取り出した。
 ちょこりと座ったままの毛玉に、干し肉を一切れ差し出してみる。
「食べる?」
「きゅん!」
 ぱくっと。
 思っていたよりもずいぶんと積極的に、毛玉は干し肉に齧り付いた。小さくても獣、ということだろうか。僕があれほど苦労した干し肉を軽快に食べていく。見た目にそぐわない食べっぷりのよさに、僕は笑ってしまった。
 夢中で齧る毛玉の前に、干し肉の包みを丸ごと置いて、僕は立ち上がった。
「それじゃね」
 もう少し毛玉と遊んでいたかったけれど、日暮れも近い。森で夜を迎えるのは勘弁したかった。


 4


 首都キャメロットは、巨大な白亜の城とそれを囲む城壁の街、というのが僕の印象だ。かつて最も偉大とされた王が拠点とした場所らしく、この城を中心として街と国が発展している。一度として敵国の侵略を受けず、コルバール凍河の大戦においてさえ、5万の魔物を十六夜のあいだ堰き止めたというこの不落の城も、ここ数十年は穏やかな顔をしているという。
「この城がある限り、国と民は大丈夫さね」
 そんな話を聞かせてくれた果物屋のおじさんにお礼を言いつつ、ついでに赤色の葡萄を一房買った。
 開け放たれた城門からは、商人の率いる4輪馬車や、風雨の汚れをつけた旅人の姿が多く見えた。空には飛竜が飛び交い、大通りには人が絶えず、この街はいつも賑やかだ。
 今でも魔物は多くいるが、昔に比べればずっと穏やかであるらしい。むしろ、適度な魔物の存在が、傭兵団やギルドの懐を暖めているほどだった。
 人の流れに乗りながら、葡萄から一粒をとって口に入れた。
「……んむ?」
 しかし想像していたものと感触が違う。シャリシャリとした、林檎に近い食感であり、しかし味は蜜柑という、微妙に複雑な果物だった。何とも言えないけれど、これはこれで悪くない。
 適当にそれを摘みながら、街並みを眺めて歩く。
 異世界に来て目を引くものはたくさんあるが、なにより興味深いのは家の造りだった。煉瓦や木のものはなく、大半が石造りだ。石のひとつひとつに色や形としての表情があり、それが幾重にも積み重なった姿は、言葉にできない感慨を覚えさせられた。煙突から立ち上る白煙が、そこにある確かな人の営みを感じさせる。3階建て、4階建ての建造物もあるし、精巧な細工のなされた窓や扉なども見かける。
 しかしその中にあって一際目を引くのが、ぽつりぽつりと見かける、継ぎ目のない壁で出来た家だった。コンクリートが近いといえば近いのだが、手触りは金属だ。その数の少なさから、おそらくは最近になって使われ始めた技術であり、まだまだ高価らしいことは分かるのだが、材質や製法などはとんと検討さえ付かなかった。魔術という存在が建築に影響を与えたのか、特殊な鉱物によるものなのかはわからないが、中世的な世界でありながら、現代科学でさえなし得ない存在がそこら中にあった。
 それらを探すだけでも楽しく、見つけたものをじっと観察することもまた楽しい。
 根底から違う発展を遂げた文明に触れることは、どんな学問よりも刺激的で、興奮を呼び起こすものだった。
 街に出るたびにきょろきょろと辺りを見回してしまうのは相変わらず、見れば見るほど新鮮な驚きがそこら中に転がっている。
「おっと、ごめんよ」
「あ、すいません」
 視線を外していたせいか、前から歩いてきた男性を避け損ねて肩をぶつけてしまう。衝撃で林檎葡萄を落としてしまった。同時に、半ば習慣として展開させていた障壁が何かを弾くのを感じた。首を傾げる間もなく、肩をぶつけた男性が慌てて走り去っていった。そこでようやく気づいた。あの人、スリだったらしい。
 何かしらの害意があるものはすべて拒絶するように設定しているのだが、まさかスリまで防いでくれるとは思わなかった。障壁魔術の便利さに驚くばかりだ。忙しなく辺りを見ていたので、お上りさんか世間知らずのお坊ちゃんとでも思われたのだろう。気をつけないと。
 落ちてしまった林檎葡萄を拾い上げると、後ろから声が聞こえた。喧騒の中でありながら、隙間を掻い潜るように耳に響いた。これは、詠唱だ。
「【足を止め給え】」
 振り向くと、視線の先、僕がぶつかった男性の姿があった。必死に体を動かそうとしているらしいが、地面に縫止められた足はぴくりとも動く様子はない。何事かと野次馬が足を止め、男の周りには小さな輪ができつつあった。周りを気にする素振りもなく、一片の光もない黒いローブにすっぽりと身を包んだ存在が、男にゆっくりと近づいていく。
「儂に触れようとは。あまり調子に乗るでないぞ、劣等種族よ」
 しわがれた声だった。暗く沈み、ひどく冷たい。永久の闇の中から這いずり出た、得体の知れぬ姿が見えた。何かが僕の足に絡みつき、体を這い上がり、首に絡まり、息をすることさえ忘れかけてようやく、それが幻影だということを認識する。あの老人の声に宿った魔力が見せたものだろうか。僕は手をきつく握り締め、確認するように息を吐いた。
「やばいぞ。あのじいさん、魔術師だ」
「おい、誰か衛兵を呼んでこい!」
 野次馬の中からそんな声が聞こえる。彼らには見えなかったのだろうか。何も感じないのだろうか。
 不意に、ローブの頭がこちらに向けられる。
 深い闇の奥からこちらを覗くふたつの瞳。口元が、にやりと歪められた気がした。
 ぞくりと寒気に襲われて、僕は踵を返した。
 まずい。あれはまずい。正面から向かい合うことさえできそうにない。あの老人は魔術師だという。この世界の魔術師という存在は、あれほど常軌を逸したものなのだろうか。
 自分でも気づかないうちに足は早まり、いつの間にか駆け出していた。どこへ行くわけでもなく、僕はただ走っていた。この場所から、あの老人から、少しでも早く逃げたかった。すぐ後ろにあの存在が迫っているように思えた。
 僕は自分のことを強いと思っていた。
 悪魔から魔力を貰い受け、どんな魔法だって使える。その気になれば世界で一番かもしれないと考えていた。
 とんだ自惚れだ。
 そうさ、馬鹿みたいな自惚れだったんだ。


 必死に走っていた足は、息が限界に達すると動きを止めた。壁に手を付いて体重を預け、乱れた息と荒く脈打つ心臓を整えようとした。全力で走っていたというのに体の芯は冷え切っていて、体の震えが収まらない。なぜこんなに怖いのか。なぜこんなに忌避感を覚えるのか。自分でも理解できなかった。あるいは、理解できないことこそが恐ろしいのかもしれない。
「おやおや、こんな所に人が来るとは珍しい」
 背後から声が聞こえた瞬間、僕は反射的に魔法を打ち出していた。詠唱の必要な魔術ではなく、イメージと魔力のみで成り立つ悪魔の法。
 打ち出された5つの炎矢は、しかし何に当たることもなく消えた。いや、正確には打ち消されたのだ。老人によって。
「ほう。これは中々、おもしろい。しかしまだまだ」
 青いローブに身を包み、顎からは真っ白な髭が生えていた。皺だらけの顔をくしゃくしゃにして微笑んでいて、目は糸のように細くなっていた。
 僕は目を見開き、呆然とした。
 僕のように障壁を展開していたわけでもなく、撃ち落とされたわけもない。ただ、消された。なにをどうすればそんなことができるのか。あの一瞬で。僕は今度こそ絶対的に、認識を改めることにした。この世界には、僕なんかじゃ及びも付かない存在が、確かに存在する。それこそ、幾人も。
 そんなことを考えて、僕は自分のしたことにようやく気づいた。何の関係もない一般人に、魔法をぶちかましたのだ。どうやったのか老人は軽く消してのけたが、普通であれば大怪我では済まない。人を殺していたかもしれなかったのだ。
 ただでさえ血色の悪くなっているだろう顔から、さらに血の気が引いた。
「申し訳ありませんでした! お怪我はありませんか」
 深く頭を下げると、笑い声が聞こえた。
「いや、いや。わしも久しぶりに楽しいものを見せてもらった。構いませんよ、お若いの。もっとも、わし以外の老木には、ちと熱すぎるじゃろうがね」
「は、はあ」
 構わないの一言で済むような問題ではないと思うのだが、老人はにこにこと笑っていた。
「しかし、もし君がわしに謝意を持っているというのであれば、少し付き合ってはくれぬかね」
「付き合う、ですか」
 僕は訝しげに尋ねると、老人はにこやかに頷いた。
「ちょうど、お茶の相手を探しておったのじゃよ」
 断るわけにもいかず、僕は老人に連れられて、複雑に入り組んだ路地を歩いていった。いつの間にか僕は路地裏に入り込んでいたらしい。日光は建物に遮られ、辺りは薄暗く、しっとりと濡れた空気が感じられた。いくつかの角を曲がり、いくつかの別れ道を通り過ぎ、現在地がどこなのかまったく分からなくなったころ、老人は行き止まりに据えられた扉に手を伸ばした。どこにでもあるような木の扉で、鍵はついていない。老人の手によって扉が開くと、部屋の中から光が溢れた。
 扉の粗末さとは比べ物にならない光景が、そこにあった。
 壁一面を覆う本棚には、分厚い本がぎっしりと並べられ、アンティーク調の重厚な机の上には羽ペンと小さなランプ。暖炉が部屋を優しく照らし、それは僕のイメージにある、魔法使いの部屋にぴったしだった。
 口を開いて見入っていた僕に振り返り、老人は自慢げに笑った。
「ようこそ、わしの隠れ家へ」
 老人に促されるまま、部屋に足を踏み入れた。
「さあ、そこに掛けなさい。すぐにお茶をいれよう」
「あ、どうぞお構いなく」
「そう言われると、ますます構いたくなってしまうのう」
 ローブを引きずりながら、老人は部屋の奥に入っていった。不思議な人だな、と思う。見も知らぬところに連れ込まれているというのに、僕の心には警戒心というものがまったくなかった。それどころか、初めて来たこの部屋がなんとも落ち着くのだ。
 魔法使いの書斎とでも言うべきこの部屋を一通り眺めてから、老人に勧められたソファに向かう。
 大きな二人掛けのソファは座り心地が良さそうで、寝心地も良さそうだった。
 片側で丸くなって寝ている黒猫に、邪魔するよ、と断ってから、ゆっくりと腰を下ろした。予想よりもずっと柔らかく沈み込んで、まるで体ごと包まれたようだった。良いソファである。自分の家を買ったときには、是非これと同じソファを購入しようと決意した。
 ふと隣に目をやる。猫は片目を開けて僕を見つめていたが、やがて興味を失ったのか、目をつぶって眠り始めた。
「こんにちは」
 声をかけてみるが、返事はなかった。気難しい猫なんだろうな、と思うことにした。
「お待たせしたかの」
 なんとかしてこの猫とスキンシップが取れないかと頭を悩ませていると、宙に浮かぶティカップやティポット、それにお菓子の乗ったお皿を後ろに連れて、老人が戻ってきた。老人は僕の対面に腰を降ろし、ティカップたちは机の上に降りた。
 すごい、まさに魔法使い。僕もまた同じことはできるのだろうが、やると見るのとは大違いという言葉通り、目にした光景にひどく感動した僕だった。
「砂糖はどうするかね」
「そのままで大丈夫です」
「そうかね。では、わしは二杯ほど」
 陶器の中から山盛りで二杯いれて、老人は満足そうスプーンでかき混ぜた。
 僕も手を伸ばし、ティカップを取る。金の縁取りと、尾羽根の長い鳥が装飾された美しいものだった。中身は紅茶のような色合いで、この世界で一般的に飲まれているものと相違ない。食堂などで飲み慣れたものであったが、味はまったく違っていた。良い茶葉を使っているのだろう。とても飲みやすい。
「味はどうかね」
「とても美味しいです」
「それはよかった」
 老人は満足そうに微笑んで、紅茶を飲んだ。
「この茶葉はアンブロジウスと言ってのう。わしはこれが一番好きなんじゃが、中々飲むことはできんのじゃよ」
「貴重なんですか?」
 だとすると、あまりガバガバ飲むのも悪い。
「そう、とても貴重じゃ。作り手がひどく気まぐれでのう、気の向いたときにだけ作るのじゃよ。君が美味しく飲んでくれれば、すぐに気が向いてまた飲めるようになるかもしれん。あれで、わし以外に飲ませる相手がいないことを気にしておるようじゃからな」
 ほっほっと、老人は長い顎鬚を撫でた。作り手とは気心の触れた仲なのだろう。親しい友人のことを話すようだった。
「この茶は、飲む者の心を落ち着けてくれる。どうかね、少しはお役に立てたかな?」
 言われて、僕は気づいた。寒気はなくなり、体の震えも収まっていた。呼吸も平常で、たった今まで忘れていたくらいだった。
 激しく動揺していたのを見抜かれていたことが気恥ずかしく思えて、僕は頭をかいた。
 老人は何も言わず、ただ静かな微笑みだけを浮かべたまま美味しそうに紅茶を飲み、僕に茶請けのクッキーを勧めた。僕はその中から一枚を摘まんで、暖炉の光にかざしてみた。薄茶色のクッキーはかすかに透き通っていて、中できらきらと暖炉の光を反射させていた。水晶のお菓子といった所だろうか。一口齧ってみると、ココアに似た甘みを感じた。食感は、まるでかき氷のようだった。食べているうちに氷が溶けるようになくなって、後にはなにも残らない。思わずもうひとつ口に入れると、今度は爽やかな酸味が広がった。こっちは果物で作られているらしい。
 ついぱくぱくと食べていると、老人がにこにこと笑っていた。
「あ、すいません。ついひとりで」
「いやいや、そこまで美味しそうに食べてもらえると、わしも嬉しい。最近はそんな機会も、とんと無くなってしまってのう」
 老人はクッキーをひとつ口に入れ、うむ、美味い、と頷いた。
「もしかしてこれ、お爺さんがお作りになられたんですか」
「道楽のようなものじゃがね。菓子作りもまた、魔術のように奥深く果てしないということに気づいたのじゃよ」
 また馬鹿なことを、とでも言いたげに猫が欠伸をした。
「あまり、他人には理解してもらえんのだがのう」
 猫を見つめ、老人がちょっと寂しそうにつぶやいた。
「僕は良いと思いますけど。美味しいですし」
 言うと、老人はぱっと顔を明るくする。
「そうかね、そうかね。わかってくれるかね。いや、君は素晴らしいのう。いろいろと作ってはみるのじゃが、何を食べても違いのわからん相手には張り合いがなくてつまらんと思っていたのじゃよ。よし、ちょっと待っていなさい。コルルとシャリオーヌがあったはずじゃから、すぐに持ってこよう。特にシャリオーヌは我ながらよく出来た品でのう。これは砂糖の代わりによく熟したラグの実の果汁を使ったのじゃよ。ああ、どこに置いてあったかのう」
 足取り軽く、老人はぱたぱたと奥に入って行ってしまった。
 僕はぽかんとそれを見送った。横で変わらず寝ている猫に目をやると、猫も片目で僕を見上げていて、それからにゃあと鳴いた。
 僕は苦笑して、ソファの背に体重を預けた。


 お菓子は次々と出てきて、それらはみな美味しかった。正直にそう言うと老人はますます嬉しそうに微笑んで、どこからともなく新しいお菓子を取り出すのだった。まるで、遊びに来た孫の相手をするおじいちゃんのようでもあった。
 壁に掛けられた時計が音を鳴らして初めて、僕はずいぶんと長居してしまったことに気づいた。
「そろそろお暇します。日も暮れてしまったみたいですし」
「おや、もうそんな時間かね。いつの間に」
 あなたがお菓子を山盛りにしている間にですよ。
 さすがに泊まっていくわけにもいかないので帰ると言うと、老人はテーブルの上にあったお菓子を、どこからともなく取り出した青色の袋に詰めた。それを土産として僕にくれるというのである。量が多すぎるとは思ったのだけれど、くれるというのだからありがたく頂くことにした。
「いつでもまた来なさい。わしもこの猫も暇を持て余しておってのう。話し相手になってくれるとありがたい」
 老人と猫にまた遊びに来ることを約束して、僕は扉を開けた。
 そこでまた驚くことになった。
 来たときと同じ、裏路地につながっているとばかり思っていたのだけれど、なんとギルド近くの広場に出たのだ。思わず後ろを振り返るが、そこには扉どころか壁さえなかった。自分でもなにがなにやら、という状態だ。
「あれは魔法の扉で、どこにでも繋ぐことができる、とか」
 思いつきで言ってみたのだが、それが答えのような気もした。
「……遊びに行くには、どうしたらいいんだろう」
 どこにでも繋がる扉は、普段どこに繋がっているのだろうか。ちょっと悩んで、とりあえずこの問題は棚上げしておくことにした。
 せっかくギルドの近くなのだ。宿に行く前に、クエストの報告をしてこよう。


 5


 ギルドは夜でも活発だった。あるいは、夜のほうが活き活きとしているのかもしれない。夜行性の獣人などもいるだろうし、単に酒を飲みに来ている冒険者もいるだろう。
 ギルドは四階建てから成っている。一階はクエストカウンターや受付、長大なクエスト掲示板がある。クエストを依頼する人や、アルバイト代わりに来る学生などの姿も見かけることができる。二階から上は関係者以外立ち入り禁止となっていて、階段を上るには冒険者としての身分証であるプレートを提示する必要があった。あまり行ったことはないのだが、二階には酒場や武器防具屋、仮宿などの、冒険者に必要な施設が集まっているようだった。基本的に討伐クエストを専門とする人が使用しているので、ちょっと柄が悪い印象がある。三階から上は、実はほとんど知らない。一定ランク以上の冒険者以外は立ち入れないというのは聞いているのだけれど、実際のところそこに何があるのかは眉唾程度の話しか聞かない。
 討伐クエストのカウンターには、少なくない人がいた。返り血のついた鎧やぼろ布同然の外套など、場所が場所のせいか、とても物騒な状態の人も多くいる。
 適当に開いているカウンターに行き、プレートと水晶を出した。
「お願いします」
「あいよ、ちょっと待ちな」
 口周りに髭を生やしたおじさんが、にこりともせずに言った。クエスト依頼カウンターや、採集クエストカウンターでは女性の受付もいるのだが、ここは男性ばかりだった。扱う内容が内容なだけに、携わる人間も限られるわけで。女性が受付というのはいろいろと問題が起きる可能性が考えられるのだろう。確かに、阿呆が馬鹿なナンパなんかをやって面倒になるよりはずっといいのだけれど、癒されない。ひと仕事終えた後に見るのがおっさんの顔だと、嬉しくない。……次は採集系のクエストにしようかな、と僕は思った。
「ランクC【ギャヌベルーの討伐】、依頼達成を確認した。報酬の金貨12枚だ。死体の方はどうする?」
「買取でお願いします」
「買取部位は、爪、舌、肉をいくつかと……あー、毛皮は半額以下だな。派手に焼けてやがる。追加で金貨2枚と銀貨3枚、それに銅貨が6枚だ」
「問題ないです」
 おじさんは机の上に置かれたトレーにぽんぽんとお金を並べて確認すると、それをこちらに押してよこした。僕は袋を取り出し、金貨銅貨もまとめて入れて行く。分類は宿に帰ってからだ。
「ところでお前さん、魔術師かい?」
 おじさんがちらりと僕を見て言った。
「ええ、そうですけど」
「のわりに、ローブも着てねえし、杖も持ってねえな」
「はあ。普通はそうなんですか?」
「普通の魔術師はローブくらい着てるわな。それが魔術師の証なんて言われてるくらいだ。杖を持ってねえのもいることはいるが、そういうのは大抵、杖を必要としない特級魔術師だ」
 へえ。それはまた、ベタベタですね。
「着ないとまずいですかね、ローブ」
「まずいってわけでもねえが、こだわりがないなら着といた方がいいだろうな。事実、加工されたローブは防具として優秀だ」
「持たないとまずいですかね、杖」
「まずいってわけでもねえが、あった方が便利なのは確かだな。なくても困らねえくらい魔術が使えるなら、さっさとカヴンにでも行って特級魔術師になっちまえ。そこらへんの貴族よりも優遇されるぜ」
「いや、無理じゃないですかね、特級は」
 どれくらいすごいのかは知らないけど。
 仮に特級魔術師というのがあの黒ローブや、青い老人並の存在ばかりだとしたら、僕には一生なれない気がする。
「お前ならいけるだろうよ」
 しかし、おっさんはひどく迷いのない瞳で言った。
「どうせ知らねえんだろうが、ギャヌベルーは高い魔術耐性を持つ魔物だ。魔術師殺しとまではいかねえが、半端な魔術師がひとりでやるには荷が重い。それを一発でブッ殺し、おまけにその毛皮まで焼いてんだから、素質は十分だろうさ。ひとつの道として考えておきな」
 言うだけ言って、おっさんはしっしっと僕を追い払った。
 入れ替わりにカウンターに向かう羊角さんとすれ違いつつ、僕は考えた。
「あの程度で素質がある、ね」
 いまいち、この世界に存在する魔術師の能力、その平均が分からない。熊を倒すために使った魔術は、あくまでも初級だ。魔力自体はかなり込めたものの、握力に例えれば軽く指を曲げた以下にしか過ぎない。それで多少なりとも素質があると言われるのであれば、この世界の魔術師というのは、大して強くないのではないだろうか。
「そこらへんも確かめないとなあ」
 歩きながらそう呟く。特級魔術師の話は置いておくとして、まずローブや杖を買いに行くことにしよう。ここの二階に置いてあるだろうか。
 一応、見てみることにして、僕は階段に進路を変えた。その途中、テーブルと椅子が無造作に置かれた休憩スペースで休む美少女を見つけた。長い青髪と、ギルド職員の制服。クエスト掲示板の使い方を教えてくれた人だった。確か、I・ブランデルさんだったかな。
 立ち止まり、ちょっと悩む。
 僕も男には違いないので、できることなら美少女さんと仲良くなりたい。けれど、特に理由もないのに話しかけるのは如何なものか。理由なんてなくても気軽に声をかけることができる人間もいるだろうが、僕はついつい探してしまう人間だった。明確な理由がないと、話を発展させられないのだった。
 普段の僕なら諦めて通り過ぎるところだろうが、今日は幸い、その理由を見つけることができた。老人からお土産にもらった、大量のお菓子である。彼女は飲み物だけを頼んでいるようなので、これをおすそ分けに行こう。
 理由が見つかった僕の行動は早かった。
「や、こんばんは」
 できるだけ自然に声を掛けたのだが、彼女はちらりとも僕を見なかった。む、無視だろうか。気づかないふりをしているのだから、空気を読んで帰れということなのだろうか。まさかそんなことはないと信じて、もう一度声をかけると、今度はちゃんと僕を見てくれた。彼女はなぜか顔を左右に向けて、周りに誰もいないことを確認した。それから僕を見上げ、自分を指差し、おずおずと言った。
「あの……わたし、ですか?」
「そうだけど、ごめん。邪魔だったかな」
「い、いえ。そんなことないです。ちょっとびっくりしただけで」
「それはつまり、お前のようなやつがこのわたしに声を掛けるとは恥知らずな、ってことかな。ごめんなさい帰ります」
「ちがっ、違います! 本当にびっくりしただけなんです! 帰らないでください!」
 思わず踵を返してしまったのだが、彼女は僕の腕をつかんで引き止めた。なんだ、僕の勘違いだったのか。びっくりしたなあもう。気を取り直して振り返り、椅子を指さした。
「そっか、それは良かった。ここ座っていいかな」
「変り身、早いんですね……」
「それはつまり、変り身の早いお前に座らせる椅子はない、ってことかな。ごめんなさい帰ります」
「違います、違いますから! どうぞ座ってください!」
「じゃあ遠慮なく」
 すとんっと座ると、なぜかブランデルさんは疲れた様子だった。
「あれ、どうかしたの? 働きすぎ?」
「……いえ、なんでもないです」
「駄目だよ、しっかり休まないと」
 気遣ったのだけれど、なぜか恨めしそうに見られた。なぜだろう。
「……それで、何かわたしにご用でしょうか」
「ご用ってほどでもないんだけど。強いて言えばおすそ分けに」
 お菓子の入った青い袋を揺らして見せる。
 ブランデルさんは首を傾げた。澄んだ海のような髪がさらりと流れた。
「お菓子をもらったんだけど、ひとりじゃ食べきれそうにないから」
「お菓子、ですか」
 袋の口を開けると、ふわりと甘い香りがあふれた。中から一枚、水晶クッキーを取り出して食べる。うん、やっぱり美味しい。
「どぞ」
 袋ごと彼女に差し出した。けれど彼女はそれを見つめるだけだった。
「もしかしてこれ、嫌いだったかな」
「そうではないのですけれど」ブランデルさんは困ったように僕を見た。「どうしてわたしに?」
 どうしてわたしに。どうして?
「なるほど。ブランデルさんも僕と同じか」僕は苦笑した。「つい理由を探してしまう。理由がないと行動できない」
 どうしてと言われても、可愛い女の子と世間話をするためだけなのだが、それを言うのは躊躇われた。なので適当にそれらしくでっちあげることにした。
「僕がクエスト掲示板の前で困っていたとき、助けてくれたでしょ? そのお礼が理由ってことで」
「はあ」
 ブランデルさんは不思議そうに、僕とお菓子を交互に見ていた。やがて、おずおずと指を伸ばし、袋の中から一枚を取り出した。
「それなら、一枚だけ」
 遠慮深い人だなあと思う。
 クッキーは大きいとは言えないのだが、ブランデルさんにとってはそうじゃないのかもしれない。正方形の一角を取るように、小さくかじった。幾度か咀嚼したところで、彼女の顔がほころぶ。
「おいしい」
 お菓子は人を幸せにするという。ブランデルさんの顔には笑顔が浮かんでいて、これを幸せと言わずにどうしようかというくらいだ。
 僕の視線に気づくと、ブランデルさんは頬を染めて、誤魔化すようにカリカリとクッキーをかじった。
「美味しいでしょ、これ。僕も初めて食べたときは、といってもついさっきなんだけど、ついつい何枚も食べちゃったし。たくさんあるからどうぞ」
 彼女の前に袋ごと置いた。
「あの、でも」
「美味しいことは確かなんだけど、僕はそれほど頻繁に甘いものは食べないんだよね。だからもしこのまま持って帰っても、誰も食べずにゴミになるかも」
 ブランデルさんはなんてもったいないことを、という顔になった。
「だから遠慮せずにどうぞ。もちろん、遠慮してもいいけどね」
 冗談っぽく言うと、ブランデルさんも笑ってくれた。
「だったら、もう少しだけ」
 クッキーをかじる彼女は、やっぱり幸せそうだった。
 そのまま見ているのも楽しかったけれど、不躾だろう。会話らしい会話も思いつかないし、手慰みになるようなものもない。時間も遅い。これだけ会話できたのだから、僕にしては及第点だ。ブランデルさんにも予定があるだろうし。
 立ち上がろうとして、ふと思いつく。
「そうだ、二階の武器防具屋にさ、ローブと杖って売ってるかな」
「はむ?」
 はむって……美少女がはむって言った……。危ない、致命傷になるところだった。ふぅ、と息をつく。
 口の中を綺麗になくしてから、ブランデルさんが口を開いた。
「基本的なものは一通り置いてありますが、購入するのであればここよりもマイスターの構えるお店の方がよろしいかと思います」
「マイスター?」
「ローブや魔術杖を作り、刻印する職人のことです。魔導具は作り手によって性能が大きく変化しますから、品の良い物はやはり専門店でないと」
 なるほど。専門店があるわけか。安物買いの銭失いというのも困るし、どうせならそっちに行ってみるかな。
「ありがとう。参考になったよ」
「いえ、お役に立てたのなら良かったです」
 ブランデルさんがにこりと笑うと、その周りだけ照明が明るくなったのかと思うほどだった。
「あー、うん。それじゃ、また今度」
「え、あの!」
 危ない。あの人は危ない。気を抜くとサクッとさられてしまいそうだった。すげえ美少女なんだもんなあ。ずるいよなあ。
 僕は早足でギルドの正面玄関を抜けた。大きな月の輝く真っ黒な空に、膨大な数の星が輝いていた。この世界でも同じように、星のつながりの中に物語を見出した人はいるのだろうか。星を見上げ、そんなことを考えた。
 さて、早く宿に帰ってご飯を食べて寝よう。明日はローブと杖を買わないと。
 どこかに行けと強制されることもない。どこかに行かなければ人生に左右するというわけでもない。この世界はずっと緩やかで、今の僕はずっと自由だった。毎日をただ、生きればいいのだから。
 後ろから声が聞こえる。
 思わず振り返ると、ブランデルさんがこちらに向かって走っていた。長い髪が尾を引いている。その手には、僕がわざと置いてきたクッキーの袋があった。本当に律儀な人だな。
 苦笑して、追いつかれないうちに僕は走り出した。


 6


 朝食を済ませ、宿から外に出ると、今日も空は晴れ渡っていた。日差しは眩しいほどで、いつもどおりの賑やかさが街には満ちていた。宿の人に聞いたところ、ローブと杖を扱う店はここからそう遠くないようだった。
 目の前を流れる人の川に混じるように、僕は歩き出した。
 それにしても人が多い。この街ではこれが普通なのだろうけれど、僕にとっては祭りの日のようだった。おまけに、歩いている人たちは獣人や小人や鎧騎士など、これでもかというファンタジー。仮装大会と言われたほうがずっとわかりやすい。
 仮装大会出場者の方々に混じって歩いていると、なんだか自分もその仲間になった気分だった。この世界の住人になれているような気がした。誰も僕を見ていないし、誰も僕には文句を言わない。互いに無干渉でありながら、根底の部分では仲間意識を持っている。そう思えた。だから街を歩くのは好きだった。ここは些か人が多すぎるけれど。
 すれ違う人たちの服装や獣耳などを観察しているうちに、目的の店に着いた。出入口の上には小さな看板が付けられている。杖のマークと、魔術杖専門店カートニックと書かれていた。杖を買うならここが一番、と宿屋のおじさんは言っていた。老舗か、ブランド店のようなものだろうか。
 両開きのドアは開け放たれていて、中にいる数人の客の姿が見えた。ローブに、杖。魔術師の証だ。
 店に入ると、至る所に飾られた杖の数々が目に入った。天井にまで吊るされている。飾られている杖はすべて長く、短いもので150cmほどで、中には2mを越すものもあった。
 店員さんは奥のカウンターに座っている男性ひとりだけで、寄ってきてあれこれと話しかけられることもなさそうだった。ゆっくりと見て回れるだろう。
 壁に立て掛けられている杖の中から一本を選び、手にとってみた。
 ちょうど、僕の身長ほどの長さで、持ち心地は悪くない。全体に黒く塗られているものが何かはわからないが、すべすべとした手触りである。上部には長方形にカッティングされた紫水晶が取り付けられ、店内の明かりを気ままに反射していた。紐で付けられたタグを見ると、大まかな杖の説明が書かれていた。
「紫の中級−第四位階【雷精の祝福】、作者はオリヴェント。この杖を扱う者には雷精の加護が与えられ、雷魔術の威力が大きく上がる――って、それだけ?」
 大きく上がるって、実際は何%くらいの上昇なんだろう。どことなく怪しいなあ。
 苦笑しながらタグを裏返して値段を確認し、僕の顔はそのまま硬直した。
「金貨、75枚……」
 僕は見なかったことにして、そっと杖を戻した。
 75枚って。しかもこれ、中級だよね。中級で金貨75枚。高すぎる。僕の予算は、金貨10枚なのに。
 思った以上に、魔術杖というのは高価なものらしい。一週間もクエストをこなせば買える値段ではあるのだけれど、大して必要性を感じないものに大金を払う必要性は、まったくない。
 しかし一応、念のため、並んでいる中から質の良さそうな杖も手にとってみた。
「おっ」
 ふわり、と。
 風が前髪を揺らした。
 先ほどの杖よりもずっと手に馴染み、感覚が広がったようにさえ思える。杖の重みもほとんど感じない。
 杖は僕の身長よりも長く、上部には羽を象った装飾が左右に広がり、中心には拳大の緑色宝石が埋まっている。綺麗な杖だった。
「緑の上級−第三位階【天つ風】、作者はリーリベル。杖を持つ者の身を軽くし、風の護りを与える。風魔術の威力が上がると同時に、消費魔力も軽減される。風の章−第40節以下に於いては詠唱短縮が可能。美術的価値も高い。だから当然、値段も高い、と。うわ、金貨300枚だって。一気に上がったな」
 これが十本あれば家が買えるんですけど。この杖に値段相応の価値があるのかは別として、今の僕が手を出せるものじゃないことだけは確かだった。そっと杖を戻して、腕を組む。
 杖を買うの、やっぱりやめようかな。お金、足りそうにないし。
 ため息をひとつ置いて、杖を眺めて歩く。意匠の凝らされたものからシンプルなものまで様々で、見ているだけでも楽しい。楽しいのだが、そのほとんどが買えない値段となると、ちょっと虚しい。
 杖を辿るように歩いていくと、杖の装飾はなくなっていき、だんだん単純なものばかりになっていく。軽くタグを見た限りでは、初級の杖が並んでいるようだった。そしてとうとう、何の意匠もない、純粋な杖というか木の棒というか、そういうものだけになった。中から一本を取ってみる。
「うん、ただの杖だ」
 僕の身長ほどの長さで、木から切り出されてそのままです、といった風体であった。上部が穏やかに隆起していて、上下の区別はつけられるようになっているらしい。物が物だけに、付けられているタグも粗末な紙で、しかもちょっと黄ばんでいた。
「白の初級−無階位【はじまりの杖】、作者不明。魔術初心者におすすめ。初めて杖を持つのであれば、まずはここから」
 本当に魔術的な意味があるのかはわからないが、杖には違いないらしい。たぶん大量生産品なんだろう。同じようなのがいっぱい並んでいるし。
 値段を見てみると、なんと金貨1枚だった。元は金貨3枚だったところを、赤字で上書きしてある。セール品か。なんてお得なんだ。僕はこの杖を買うことにした。きっと山を上るときには大いに役立ってくれるだろう。
「すいません、これください」


 杖をついて歩く。杖の先が石畳を叩き、コツン、コツンと音が鳴る。
 魔術師が杖を持つ理由が少しだけ分かった気がした。これはなかなか、気分が良い。皆、この音が病み付きになるのだろう。そして高い杖になるにつれて音の響きが変わっていき、奏でられる音色の美しさに没頭するのだろう。そうに違いない。
 無駄にコツコツ鳴らしながら、僕は再び人の流れに戻っていた。杖は買ったので、後はローブだけだった。それを買ったらギルドに戻って、適当にクエストを受けよう。
 頭の中で予定を立てながら歩いていると、道端に布の山があった。色鮮やかに幾重にも重なっていて、しかもちょっとずつ動いている。横を通り過ぎてから振り返ってみると、今にも押し潰されそうになっている男の人が見えた。布を背負うようにしているのだが、重みのためか、ほとんど四つん這いで這いずる形になっていた。
 いくらか迷ったけれど、僕は声をかけることにした。
「あの、大丈夫ですか?」
 返事は布山の下から返ってきた。
「だい、じょうぶ……じゃない、かな」
「それはよかった」
 返事ができるなら大丈夫だろう。
 顔がよく見えないので、しゃがんでみると、若いお兄さんが汗だくになっていた。やや細長い顔に、栗色の茶髪が好き勝手に跳ねている。ちっ、イケメンか。
「お手伝いしましょうか」
「ほ、本当、かい、お願いしよう、かなっ、うおおおお」
 ぺたん、と。気を抜いてしまったらしく、お兄さんはついに布の山に埋もれてしまった。声をかけてみるが、返事はない。
 仕方なく僕はバッグを地面におろし、魔導書を取り出した。
「浮遊の魔術とかでいいのかな」
 そして動かなくなった布の山を前に、ページ捲りの作業である。あーでもないこーでもないとやっていると、通りがかりの人達が声をかけてくれる。にこやかに応対しつつ、僕はついに物体を浮遊させる魔術を発見した。ちゃちゃっと詠唱を終え、杖先で示すと、布の山はふわりと持ち上がった。それは巨人が指で埃をつまみ上げたようにも見えた。
「大丈夫みたいですね」
「……うん、助かったよ」
 荷物と一緒に宙吊りになったお兄さんが答えた。彼がその場でもぞもぞと動くと、滑り落ちるように僕の前に立った。籠のようなものを背負い、その中に布を詰め込んでいたらしい。
「いや、まさか魔術師さんに助けてもらえるとは思わなかった。本当にありがとう。ちょっと荷物を買いすぎちゃってね」
 まさか、ね。魔術師は人助けも滅多にしないのかもしれない。
「これはどこに運びましょうか。ついでですから、このまま持って行きますよ」
「そこまでやってもらうわけには」と、彼は布の山を見上げた。改めて見るその量の多さを確かめたようだった。「……やっぱり、お願いしていいかな」
 僕は苦笑して頷いた。
 先導して歩き出したお兄さんに、僕も付いて行く。宙に浮いた布の端っこに杖をひっかけて運んでいるので、見た目は大きな風船だった。軽さも風船並だ。浮遊の魔術も便利だった。
「おれはアストル。小さな仕立て屋をやっているんだ」
「僕はコータです」
 通り過ぎる人たちが布玉を見て目を丸くしていたが、僕らは気にせず自己紹介をした。
「コータくんは、魔術師になったばかりかな」
「ええ、まあ。どうして分かったんですか?」
 アストルさんは笑って、僕の杖を指さした。
「初級用の杖を見れば分かるさ」
 言われてみれば当たり前のことだった。この杖を持っているだけで、僕は初心者ですと喧伝しているようなものだ。魔術師が高価な杖を買うのは、見栄のためという理由も大きいのかもしれない。
「でも、ローブは着ていないみたいだね」
「これから買おうかと思ってます」けど……。
 アストルさんの様子が変わり、僕は言葉を飲み込んだ。くっくっく。そんな笑い声が聞こえた。
「それなら是非、うちの店で買って行くと良いよ! うん、それがいい! いやあ、お客さんは久しぶりだな! さっそくアレットに教えてやらないと!」
 さきほどの穏やかさが嘘のように、アストルさんのテンションが上がっていた。目の色まで変わっている。
「さあ、早く行こう! 大丈夫! うちは物の良いものばかりだからね! うわっ、みなぎってきたああああああ!」
「あ、ちょ」
 有無を言わさずに僕の手を掴み、アストルさんが走り出した。僕は引き摺られるように付いて行くしかなかった。


 仕立て屋ピアトルと看板の下げられたその店は、中央通りから外れ、住宅街からも外れた、閑散とした通りにあった。小じんまりとした造りで、店というよりもごく普通の家に看板を取り付けただけという表現が正しいように思えた。店の外壁にはいくつかの大きな染みがあり、赤い屋根の色はくすんでいる。
 店の前に来てようやく僕の手を離して、アストルさんが扉に向かった。
「アレット! アレット! お客さんぶへ!」
 ノックしたかと思えば、ドアは勢い良く開き、アストルさんの顔を強かに打った。
「もう、お兄ちゃん! お使いひとつにどれだけ時間かかるのよ!」
 中学生くらいの女の子が、眉をきっと吊り上げながら出てきた。栗色の髪が後頭部でまとめられ、彼女が動くたびに好き勝手に跳ねている髪型は、大きなパイナップルを彷彿とさせた。彼女がアレットなのだろう。活発そうな女の子だった。
 彼女は、鼻を抑えてうずくまっているアストルさんの襟首を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「あのね、お兄ちゃん。わたしが言ったことを覚えてる? お兄ちゃんがでかける前に、わたしが、念入りに5回も言ったことを、ねえ、覚えてる?」
「あー、いや」
「忘れたの?」
 ひとつひとつを区切るように彼女は言った。そこに恐ろしい迫力を感じて、僕まで腰が引けてしまったほどだった。
「ああ、思い出したよ! できるだけ早く買って、すぐに帰ってきて、だったかな」
「へえ。ちゃんと覚えてたんだ。じゃあ、なんでこんなに遅くなったのかしら。ううん、答えなくていいよ。どうせまた寄り道したんでしょ。わかってる。あのね、お兄ちゃん。ポルブは煮込むときが一番大切なの。時間をかけちゃうと苦味ばっかりになって、食べられたものじゃなくなるの。それをどうすればいいのか、知ってる? 知らないよね、お兄ちゃん料理できないもんね。じゃあ教えてあげる。味が染み込む前にね、クトの葉を入れるの。クトの葉が苦味を吸って、後に残るのは美味しい美味しいボルブだけ。だけどお兄ちゃんがクトの葉を買ってきてくれなかったから、出来上がったのは苦い苦いボルブだけ……わたしの言いたいこと、わかる?」
「に、兄ちゃんは苦いボルブも好きだぞ」
「わたしの料理が台無しになったって言ってるのよ!」
 ガクガクガク。アストルの頭が恐ろしい速さで前後に揺らされた。
 楽しそうな兄妹だな、と僕は思った。完璧に無視されて置いてきぼりになっているので、先に店内に入らせてもらうことにした。宙に浮かんでいた山ほどの布も店内に入れて、片隅にまとめて置いた。
 外観を裏切らず、店内も小さなものだったけれど、雰囲気は良い。店内の両側にハンガーに吊るされた服たちが所狭しと並べられている。どうやら、男物と女物で分けられているようだった。手近にあった、落ち着いた色合いのシャツを手に取ってみる。肌触りもなめらかで、寝間着に良さそうだった。手持ちの服も多いとは言えないので、ここで何着か買っていこうかな。
 適当にいくつか服を見繕っていると、説教が終わったらしいアレットが、アストルを引きずりながら入ってきた。服を腕に抱えた僕を見て、目を丸くする。
「お、お客さん!? そんなまさかうちにお客さんが来てくれるなんて! 何日ぶりかしら!」
「急に不安になってきた。やっぱりやめようかな」
 何か欠陥でもあるのだろうか、この服。
「いえいえっ、ぜひ見て行ってください。そしてできれば買ってください!」
「どこかで聞いたようなセリフを……やっぱり兄妹なのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
 僕は首を振った。アレットはぴくりともしないアストルをそこに置き、ささっと僕のほうに駆け寄ってくる。
「どういうものをお探しですか? 着心地のいいものから丈夫で長持ちするものまで、いろいろ揃ってますよ」
 にこり、と営業スマイルが向けられた。
「ああ、いや」
 僕は服などをひとりでゆっくりと見たい部類であり、近寄ってくる店員さんは苦手としていた。まさか面と向かって放っておいてくれとは言えず困っていると、アストルがむくりと起き上がった。
「待つんだアレット!」
「お兄ちゃんは黙ってて! 我が家の家計はもう瀬戸際なの!」
「その人はローブを求めているんだ!」
「な、なんですって! わたしのローブを!?」
 驚き、まさか信じられないという目でアレットが僕を見た。どうでもいいのだけれど、ほんとに似たもの兄妹だなあ。
「本当ですか!?」
 身を乗り出す勢いで訊かれ、僕は仰け反りつつ頷いた。
 アレットはそのままカタカタと小刻みに震え、俯いてしまう。どうかしたのだろうか、と様子を伺っていると、不意に両手を握られた。
「――あ」
「あ?」
「ありがとうございます!」
 なんでお礼ですか。
 彼女の目には涙が浮かび、しかし顔は満面の笑みで、これは泣き笑いなのか笑い泣きなのかと判別に困るほどだった。
「ああっ! ヴァリオルンテ様の加護に感謝いたします! ローブを作り始めて苦節3年。魔術師のことごとくに相手にしてもらえず、今の今までたった一着さえ売れなかった日にはあなた様のことを恨み罵ったこともありました! けれど今日、ようやくわたしの願いが届いたんですね! これでようやく、こんなものが売れるはずがないとまで言い切ってくれやがったあのくされ魔術師を見返すことができます!」
「ごめん僕やっぱり帰るね」
「ちょっとどこに行くんですか!」
「いや、急に不安になったから」
「大丈夫です! きっと大丈夫です! ちょっとだけですから!」
「なにがちょっとだけなの? なにが大丈夫なの?」
「心配いりません! さあ! さあ!」
「そんな無理やりに引っ張らなくても……アストルさん、あなたもさり気なく後ろから押さないでくれませんか」
「ははは、妹の大事なお客さんだからね。――絶対に逃がさないよ」
「やっぱり帰らせてください。いますぐに」
「ああもうどうしよう、今日はお祝いしなくちゃ」
「あれ? 僕が買うことが決定済みになってる?」
「こっちの服は先に包んでおくね。いやあ、おれの服まで買ってくれるなんて嬉しいなあ」
 そんなこんなで、いや本当にそんなこんなって感じだったけれど、僕は半ば強制的に店の奥に連れ込まれた。そこは作業場になっているようで、大きな机の上には裁ち鋏や布の切れ端があって、マネキンに作りかけのものと思われる服が着せてあった。壁一面が大きな棚になっており、そこに様々な布がしまわれているようだった。
 いろいろと諦めた僕が椅子に座って待っていると、両手いっぱいにローブを抱えたアレットが現れた。
「本当はまだまだあるんですけど、まずはこれだけ。自信作ばっかりですよ」
 相変わらず楽しそうに、アレットはにこにこと笑っていた。心なしか、頭の上のパイナップルも愉快げに跳ねている気がする。
 上機嫌にローブを次々と並べながら、彼女が言う。
「どういうものをお探しですか?」
「これといった条件はないかな」
「じゃあ、得意な魔術属性とか、多用する魔術はなんでしょう」
「特にないね。なんでも使うし」
「むむ。なら、物理攻撃に強いほうがいいとか、魔力を通しやすいのがいいとか」
「それもないなあ」
 アレットは深くため息をついた。張り合いのないお客さんだなあ、とでも言いたげだった。
「張り合いのないお客さんだなあ……」
「ほんとに言った」
「え?」
「いや、なんでもないよ、うん。そうだ、撥水性に優れて、温かいのがいいかな」
「それだけじゃ、マントや外套と変わりませんよ。ローブの特性が大事なんです」
 がんばって要望を言ってみたのになあ。興味なさげな僕を見かねて、彼女はローブに付属される特性がいかに重要かを訥々と語った。といっても、僕はあらゆる意味で初心者なので、小難しいことはわからなかった。どれを選んでも似たようなものに思えた。
「初心者用のローブでいいよ、駆け出し魔術師だから」
「んー……それって嘘でしょ?」
 目を細め、僕の全身を見透かすようにしながら、アレットが言った。
「どうして?」
「だって魔力の流れがすごく綺麗ですから。駆け出しさんがこんなに綺麗に循環させるなんて無理ですよ」
「そんなことが分かるの?」
「はい。わたしの眼ってちょっと特殊で、魔力の流れを目で視ることができるんです。一応、魔眼になるらしいですけど」
「へえ」
「だから本当は、時間をかけてその人の魔力を見て、その人にあった物を素材から集めて作るんですよ。特注になっちゃうから、時間もお金もかかるんですけどね」
 それはすごいな、と感心した。特注。良い響きである。
「それって幾らぐらいかかるの?」
「特注でつくりますか?」
「いや、参考までに」
 また一段とアレットのテンションが上がったので、流されないうちに言っておいた。アレットは残念そうに答えた。
「最低でも金貨30枚はないと良い品にはなりませんね。材料を持ち込んでくれたら、ずいぶんと安くなりますけど」
「高いなあ」
「でも! それだけの価値はあるものを作ってみせますよ、わたしは!」
 握りこぶしを掲げた姿は、こう、燃えていた。職人気質の女の子なんだろう。瞳はマジだった。この子は良いものを作りそうな気がした。勘でしかないけれど。
「今は手持ちがないから無理だけど、機会があれば作ってもらおうかな」
「本当ですか!」
「機会があれば、ね」
「はい! 楽しみに待っています!」
 あると良いんだけどね、機会が。最低でも金貨30枚もするローブを着る日が、果たしてくるのだろうか。
 しかしそんなことは関係なく、俄然やる気になったアレットは、次から次へとローブを引っ張り出して僕の体に当て、あれでもないこれでもないとやり出した。僕がしたことと言えば、椅子に座ってぼんやり天井を眺めていたくらいだろう。
 見かねたアストルがお茶をだしてくれて、そのお茶も空になり、アストルが世間話の相手になってくれて、その話題も尽きかけたころになってようやく、アレットは妥協したらしい。
「うー。刻印を調整したりミスリル糸を織り込んだり、やりたいことはたくさんあるんだけど、今まで作った中からじゃこれが精一杯かな」
 アレットが手に持って広げたのは、鮮やかな緋色のローブだった。
「それは、ちょっと目立ちすぎないかな」
 街中を歩く姿を思い浮かべて、僕は控えめに言った。
「おれは良いと思うなあ。装飾も派手すぎないようになってるし、色も綺麗に出てる」
 アストルの言葉に、アレットも満足げに頷く。そして僕に差し出して、必殺の上目遣いで決断を迫るのであった。
「これがおすすめです。あの……買って、くれますか?」
 不安と期待がごちゃまぜになったその視線は、まさか狙ってのものではないだろう。しかし、そんな目で見られてしまうと、男のひとりとして、僕は買うという以外の選択肢を選ぶわけにはいかないのだった。
「……おいくらですか」
「やった!」
「うんうん、よかったなあ、アレット」
 手を打ち鳴らして喜ぶ兄妹を前に、僕は財布を取り出すのだった。
 それから二人に見送られて、僕は店を出た。風を受けてなびく緋色のローブは着心地がよく、体調も良くなっている気がする。体がやや軽い。そういった効果が付属している、とアレットに聞いたからかもしれないが、気のせいではないだろう。アストルが包んでくれた数着の服をバッグに詰めながら、僕は空を見上げた。太陽はまだ高く、ようやく昼過ぎといったところだろうか。これから昼食を食べて、ギルドに寄って、クエストのひとつでも片付ける時間は十分にあった。

モクジ

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