モクジ

  異世界で日本語  


 最近、昔読んだ小説の内容やら、ヒーロー物の映画とか特撮アニメとか、そんなことを思い出す時間が増えたように思う。
 剣と魔法の異世界ファンタジーなラノベだとか、正義の味方的な人造人間だとか、まあ、よくある話のものだけれど。
 「そして僕は空を見上げる」
 いい歳にもなって、と言うには語弊があるだろうが、僕は「非日常」的なものが好きだった。
 それは海を渡って外国に行ってみたいとか、気ままに旅をしたいとか、そんな感じの憧れと似たようなものだったけれど、僕の中に色あせないままずっと存在していた感情だった。
 もちろん、そんな話を誰かにしたことなんてありゃしない。どうせ返ってくるであろう言葉なんて分かりきっているからだ。
「高校生にもなってなにを言ってるんだ」ってね。
 まあ、確かにそう言われてしまうとそれまでなんだけど、でも本当にそうなんだろうか。本当に「高校生にもなって」と鼻で笑われてしまうような話なんだろうか。
 誰かが幽霊の存在を信じているように。あるいは宇宙人だとか、未確認生物だとか。突き詰めてしまえば占いだってそうだ。
 完璧な否定が出来ない以上、その可能性は残っているのだ。どこかの誰かだって言っていたじゃないか。
「想像出来るのであればそれは存在する」とかなんとか。
 真偽は分からないけれど、僕は存在していて欲しいと思う。だって、そうでなきゃつまらないじゃないか。
 幽霊のひとりやふたり、宇宙人の10人や100人、それこそ異世界のひとつくらい、存在してくれなきゃ困る。どれひとつないようなつまらない世界で生きてるなんて、それだけで絶望だ。
 だから、僕はずっと信じていたし、望んでもいた。
 この世には別の世界がある。できれば行きたい。そんな単純で馬鹿げたことを。
 幼稚園児が「僕、野球選手になる!」みたいな、無謀と言うか無知というか、けれどひどく純粋な、そんな感情にも似ていたかもしれない。だからなのか、それとも全く関係はないのか。今となっては分からないけれど。
 ―――僕は今、「異世界」にいる。

 0/プロローグ

 話は変わるのだけど、いざそれが起こってみると思っていたほどでもなかった、なんて経験はないだろうか。
 僕が真っ先に思い出すのは、3、4年ほど前に発売されたゲームのことだ。
 半年も前から大々的に宣伝されていた大作のRPGは、僕の幼心を非常に刺激した。今か今かと指折り数え、小出しされる新情報で期待と妄想を膨らませていたものだ。
 しかし、いざ発売日が訪れ、ソフトを手にして遊んでみると、不思議とまあ、それほどでもなかった。面白いことには面白いのだけど、それだけだ。
 結局、一度クリアしたところで、半年間ずっと燃え続けていた熱はすっかり冷めてしまった。
 この例え話から僕が何を提言したかったのかというと、本当にそれが現実になることが必ずしも幸いだとは限らないんじゃないか、という考察に行き着くわけである。
「何かを待つってその楽しみの半分にあたるわ」とは赤毛の少女の言だったように思うのだけれど、なるほど確かに、その通りである。
 物事は起きるまでが楽しい。それは物事を自分の都合の良いように考えられるからだし、面倒なことには一切目を向けなくて済むからだ。
 そして今、僕の「異世界に行く」という密やかな願望は、なぜか叶ってしまった。現実になってしまったのだ。
 見方によっては誰のものよりも難題な夢が叶ったのだから、そりゃ僕だって嬉しかった。見たこともない景色、知識の範疇を超える生物、空に浮かぶ大小二つの月。
 混乱と戸惑いはすぐに消え、呆然と唖然の奥からどうしようもない感慨が溢れ出る。器からこぼれ出した感情を大声にして叫んで、闇雲に駆け回って踊り狂えば、僕の全身を包み込んだその時の感動と興奮を少しは表現できたかもしれない。
 ここまで来て、僕の置かれた状況は冒頭に戻るわけだ。即ち「起こってみると思っていたほどでもない」という落胆、そして「それが現実になることが必ずしも幸いだとは限らない」
 事実、僕はそれをわが身を以って体得する羽目になった。
「異世界」
 この場合、そのままファンタジーゲームの中身と考えて問題ないと思う。
 魔王だとかの侵略者がいるかいないかは知らないけど、科学の代わりに魔法があるし、人間以外の種族はあちこちで見かけられる。
 美形の代名詞みたいなエルフだっているそうだ。もっとも、滅多に他種族と関わりを持たないとかで、深い森の中に住んでいるエルフを未だに見たことがないのだけれど。
 そして、ゲームという体裁を整えるために、忘れちゃならないことがひとつある。そう、敵だ。モンスターだ。
 すっかり有頂天になっていた僕は、そのことをすっかり忘れていた。というよりも「都合良く考えていなかった」のだけど。
 そして、夜の森の中、敵とのエンカウント率が急上昇するような時間と場所に現れてしまった僕は、不運にもというか、この場合はごくごく当たり前な感じで、モンスターに遭遇したのだった。最悪だった。人生で2度目くらいに死を覚悟した。 
 ―――ああ、しかし、そう、しかしだ。神は僕を見捨ててはいなかった! いや、異世界にぶっとばしてくれたのが神だったならそれくらいやってくれて当然なのだけど、とにかく、神は僕を救ったのだ!
 それはまるでゲームのような映画のようなラノベのような。素人小説書きがよくやるような予定調和なご都合主義みたいな感じだったのだけど、んなことは僕には関係ない。命の危機に瀕していた僕は、まるで導かれるように――――
「ねえ、なにやってんのアンタ? 顔がころころ変わって面白いを通り越して気持ち悪いんだけど」
 意識の外から聞こえた声に、僕は羊皮紙というファンタジーな物体に書き殴っていた手を止め、顔を上げた。
 テントの入り口を覆っていた垂れ幕を上げて覗き込んでいたのは、見た目16、7才ぐらいの女の子だった。
 僕には他に表現が思いつかないくらいにぴったしな夕陽色のショートカットが、あちこちで好き勝手に跳ねている。無造作と言えば聞こえはいいかもしれないけど、僕はただの寝癖、あるいは癖っ毛と判断している。
 勝気そうな紅色の猫目と、頭の上に存在を主張しているふたつの獣耳。極めつけは後ろでゆらゆらと揺れている尻尾。正にファンタジー。正に王道。
 彼女は、異世界には欠かすことのできない獣人というやつなのだ。しかも外見だけを見れば結構可愛い。
 おまけに着ているのが水着にも下着にも見えるようなものだけだから、慣れるまでは僕にはちょっと刺激が強い相手だった。もちろん、性格的な意味でも。
「……ああ、なんだ。ミリィか。予想はしてたけど残念だ。行列に並んでたら僕の目の前で売り切れちゃったくらいにむなしくて残念だ」
 とりあえず挨拶をしておく。やあ、おはよう。今日もいい朝だね。みたいな?
「その頭カチ割るわよ、ドちび」
 素敵な笑顔で威嚇してくるミリィに愛想笑いを返しておく。
 こんなやり取りはいつものことなので、僕もミリィも手馴れたものだった。しかしちび言うな、この猫娘が。
 いや、なんだっけ? 誇り高きラーオン族だっけ? まんまライオンじゃねえか、とは突っ込まないが、部族名はそんな感じだった気がする。
 ラーオンだったか、それともラーイェンだったか。正確な所を思い出そうと頭を捻る僕に一切断らず、僕に与えられた狭っ苦しい個室テントにミリィが無断で進入してくる。
 ミリィはそのまま、板に木の棒を無理やりくっつけただけの即席座卓の前までやってきて、僕がさっきまで一心に綴っていた日本語の羅列をかがみこむ様にして眺めた。
「うげ……これってあれでしょ、古代神言語ってやつ。うわ、しかも、全部ぅ!?」
 座卓一杯に広げられた日本語で埋め尽くした紙を拾い上げ、ミリィは至極わかりやすい「うげえ」という顔をした。
 しかし、僕にとってはんなことはどうでもいいことだった。ただでさえ際どい衣装の美少女が、僕の目の前で屈みこんでいるわけで。
 相手がミリィというのがあれだが、この際それは置いておこう。眼前で揺れるメロンに罪はない。……たまりませんなあ。いやあ、異世界に来てよかった!
 げへへ、と鼻の下を伸ばしていると、ミリィは理解不能と紙を放り、僕に顔を向けた。
 そこには瞬時に顔を矯正し、なんでもありませんよ、僕なんにも見てませんよ、みたいな顔をしているであろう僕がいる。男とは悲しい生き物なのだ。
「ほんと、こんなぐちゃぐちゃなのが文字なんて信じられない。あれでしょ、これが完璧に解読出来るのって、今のところアンタだけなんでしょ?」
「あー、うん。らしいね」
 ほえーっと、素で感心してくれるミリィを前に、僕は少し居心地が悪い。
 口は悪いし、適当なことも多いのだけど、ミリィはひどく感情豊かなのだ。しかも、それを率直に表現する。
 悪いと思えば謝るし、感謝すれば言葉なり行動なりで示す。ひどく純粋で、とても分かりやすいヤツなのだ。おまけになんだかんだで姉御肌というか、面倒見が良い。
 僕がここに来たばかりの頃は、ぶつくさ言いながらも僕の手助けをしてくれたものだ。
 つまるところ、僕がミリィを表現するのに一番適切なのは「良いヤツ」であって、そんな人に嘘をついてるというのはちょっと心苦しいものがあった。
 おまけに、それを純粋に感心なんてされてしまった日には、もう、なんか、こう、居た堪れない。
「古代神言語」というらしい。この世界での「日本語」の名前は。
 今よりもずっとずっと昔。大陸はひとつで、そこには天人というひとつの種族が住んでいた。
 彼らは優れた知識と技術を持ち、世界を意のままにできたそうだ。天候を予測し、あるいは望むように変え、遥か遠くに住む人々とその場にいながら言葉を交わし、空を自在に飛び回る。
 そんな時代と人が、確かにあったらしい。それを「神世」と言い、その時代に使われていた言葉、それが「古代神言語」である。
 数多の文字が無数に組み合わさっており、それを完全に解読することなど不可能。
 数多くの学者や賢人を以って、そう言わしめてきた崇高な神言は、なんでか知らないが見事まんまな日本語だった。
 所々、見たことのない漢字や古めかしい言い回しなんかもあったが、大まかに解読するには困らなかった。
 僕にとっては読めて当然なのだけど、この世界の人々にとって、それはとてつもなくすごいらしい。
 最初はうさんくさいと思われていたのだが、僕が読み上げるとおりの場所を試しに掘ってみれば、財宝が出たり遺跡が出たり。
 気づけば、僕はいつの間にか「神の使い」だとか、「史上最賢の言語学者」だとか、ちょーっと勘弁してほしいくらいに大げさな二つ名がついていた。
 もっとも、信仰する神の違い(宗教的な違い?)から、かなり明確な派閥が存在するらしく、僕の名は僕がなし崩し的に所属することになった派閥のごく一部でしか知られていないようだった。
 これ以上大騒ぎされても困るから、僕としては願ったりなのだけど。
「あたしにはさっぱりだわ。やっぱ頭の出来が違うのかしらね。兄貴もあたしも学なんてぜんっぜんないし」
 たはは、とミリィが笑う。
 しかし、全然そんなことがないのにそう思われてしまうのもあれなので、とりあえず否定しておくことにした。
「出来というか、今まで何をやってきたかじゃない? 僕はこれだけをやってきたからこれしか能がない。けど、ミリィは違うだろ? 僕よりも途轍もなく体力あるし、戦えるし。僕からしてみるとそっちのがちょっと羨ましいけど」
 かなり真実じゃないだろうか。少なくとも、僕はテントの設営ひとつまともにできないし、食事を現地調達することもできない。魔物と戦うなんて夢のまた夢だ。
「自分にできないことは出来るヤツに任せればいいんじゃない? 自分だけで出来ることなんてそう多くないんだし」
 そう言うと、ミリィは後ろ頭を掻いたままの姿勢で僕をぽかんと見つめ、やがてにかっと笑った。
 そして僕の頭をぐわしと掴み、撫でるというか、揺らすというか、そんな動きで僕の髪をくしゃくしゃにした。
「やっぱアンタって学者っぽくないわね。偉そうにしないし、あたし達を見下したりもしないし。ちっちゃいし」
「ちっちゃい言うな」
 ぐらぐらと揺れる視界の中でとりあえずそれだけを言い返しておく。これでも160は超えてるのだ。……多分。
 揺れる世界にちょっと気持ち悪くなってきた頃、ようやく満足したらしいミリィが手をのけてくれた。
 頭が撫でやすい位置にあるのか、ミリィが撫で魔なのかは知らないが、僕はよくミリィに撫でられる。男としては本当は逆が好ましいのだが、なんかもう、諦めた。
「……で、なんか用なんじゃないの?」
 くしゃくしゃになった髪を手櫛で直しながら、ミリィを恨めしげに見上げて訊く。
「ああ、そうそう。忘れてた。新しい石碑が見つかったんだってさ。偉い人がアンタを呼んでる」
「んじゃ行きますか」
「さっさと行きましょー」
 現在、これが僕のお勤めで、衣食住の命綱なので、サボるわけにはいかない。まあ、実際は書かれていることを読むだけでいいので、これほど楽な仕事なんて他にはないだろう。
 そこらへんに置かれていた道具袋を肩に背負って、ミリィの背中を追う様に外に出る。
 ジリジリと肌に刺さる日差しを感じながら、高く澄んだ青空を見上げた。異世界だって空は青かった。本当、思ったほどでもないのだ。異世界ってやつも。
「ほーら、さっさと来なさいよ! あたしが怒られるでしょーが!」
 いつの間にかさっさと進んでいたミリィの声に、僕は視線を下ろした。
 設営されたいくつもの大小のテントと、あちこちで風に揺れる洗濯物。子供が駆け回り、人間や獣人が談笑し、あるいはひとつの作業を協力して行っている。
 いつの間にか慣れてしまった異世界の風景。それは、着々と僕の日常になりつつある。
「世界の違いって言っても、別に大したことはないんだよなあ」
 そんなことをぼそっと呟き、僕はミリィの待つ場所へ足を進めた。
 国の名はイスクルド。現在の居場所はマーリブ遺跡。
 古代遺跡調査団第十三部隊、通称「アルレド」所属、特別顧問言語学者「ヒロヤ・キリシマ」
 美氷学園2年 霧島裕哉は、かつて異世界と呼んだその場所で、そんな風に生きている。

 1/遺跡の入り口

 この世界において、遺跡発掘という男のロマンをくすぐる仕事は、あまり有名ではないらしい。
 というのも、土を掘り返して昔の人の暮らしがどうたらこうたらとやっていられるほど余裕のある国は、そう多くないのだ。
 聞くところによると、国営で遺跡調査なんかやってるのは大陸でもイスクルドぐらいだとか。有数の先進国だから金はある。学者が優遇されるお国柄だから人もいる。そしてなにより国王の道楽。
 まとめるとそんな感じの理由で、僕らは砂漠をほじくり返しているようだった。
 じゃあ、僕らはライバルもなしで好き勝手に掘り放題かと言うと、実はそうでもない。ミリィとかに聞くに、遺跡を探しているのは僕らだけではないようだ。
 個人的な資金を投入して道楽半分でロマンを求めていたり。
 遺跡から出てきたものを売って生計を立てている一族がいたり。
 普通に盗掘している盗賊の方々だったり。
 まあ、いろいろといるらしい。もっとも、砂漠の真ん中にあるオアシスに設営されたキャンプ場から出たことのない僕には、全く縁のない話である。
 適当に日本語読んでるだけで生活が成り立って、無駄におっさん達から尊敬とかされて、これほど楽な仕事はない。だからまあ、望むのはロマンよりも平穏。財宝よりも食事なのである。
「だからさ、やっぱり行くのやめようかな」
「はいはい。わかったからさっさと行くわよ」
「……(´・ω・`)」
 非常に遺憾だが、ミリィはすでに僕という人間の扱い方を心得ていた。
 唐突かつ意味深な感じで「だからさ」と切り出したというのに、返ってきたのは「はいはい」なんて投げやりな対応だ。まるで僕が駄々をこねている子供みたいじゃないか。
 納得いかないので、せめてもの反抗としてとりあえず踏ん張ってみたのだが、種族的な力関係のせいで僕の行動は全くの無意味だった。
 ずるずる。
 僕の腕を掴んだまま、ミリィは平然と歩を進める。踏ん張っていた僕は体勢を崩したけれど、ミリィは全くの無視だった。
 地面を引きずられる僕。僕を引きずるミリィ。傍目からすれば非常にアレな光景ではないだろうか。だが、これもまあ、いたって普通の日常である。
 僕らを見ても、周りの人々は「またやってるな」的な生ぬるい笑みを向けるだけだった。時折「ひゅーひゅー」とか野次を飛ばしてくるおっさんもいるけど、基本は無視である。
 汚れないように道具袋を抱きかかえた僕は、空が青いなあとか思っていた。一種の現実逃避に近いかもしれない。
「僕、あの人苦手なんだけど」
 ずるずると引きずられながら声をかける。歩かなくてもいいから楽っちゃ楽だけど、なんか、こう……まあ、いいや。ともかく、できれば今はあそこに近づきたくない。正確に言えば、あそこに立っているインテリ眼鏡の人に、近づきたくない。
「あたしも嫌い。でも仕事でしょ。アンタもあたしも」
 はい、その通りです。
 ミリィと僕の意見は完全に一致していたが、そこから先は全く逆だった。
 ミリィは僕よりもずっと真面目だ。もちろん、ミリィが所属する傭兵ギルドと、遺跡調査隊の間で交わされた契約を破るわけにはいかないというのもあるだろう。
 だけど、この律儀さはミリィの性格によるものの方が大きいように思う。
 それがどんなに小さいものであったとしても、ミリィは約束″を破らない。
 度々ミリィから聞かされる<一族の掟>というものなのか、ミリィ個人のものなのかは分からない。だけど、どんな約束であれ、ミリィとの間でそれが破られたことがないのは事実だった。
 だからまあ、ミリィは自分に出来るかどうかをしっかりと考えてから約束″をするようだけど。
 ミリィは僕の送迎及び護衛が任務だった。それがミリィの兄でもある団長との約束である。約束を守ることにかけて定評のあるミリィに対して、僕はどうしようもない。
 つまり、そこから導き出される結果から、僕は会わなければならないのである。この――
「困りますね、キリシマ先生″。もちろん先生″が大変お忙しいということは分かりますが、時間は限られているのです。これは子供の遊びではないのですが?」
 うっぜえええええええええええええ眼鏡の人と。
「……はい、すいません」
「まったく。何度言えばご理解頂けるのですかね。先生″がいて下さらないと、作業が進まないこともあるのですから。先生″にも相応の責任を自覚してもらいませんと」
 ちょっと遅かったくらいで言いすぎじゃね? とは思うのだけど、口を挟むとさらにうざいことになるのは目に見えていた。
 僕はとりあえずへこへこと頭を下げ、殊勝に謝っておく。これ以上わざとらしく「先生」とか呼ばれたくないし。
「貴方の常識と異なることも多いかもしれませんが、ここは貴方の住んでいた大陸とは違うのですよ? しっかりして頂けませんか。文字は読めなくとも私の言葉は分かりますよね? 昨日も言ったはずです。呼んだらすぐに来てくれと」
「はい、本当にすいませんでした」
 くいっと眼鏡を上げる動作までがいらっとくるこの人は、僕が来るまではこの隊唯一の古代神言語の学者だった。
 スライだったかスマイだったか、男の名前は正直どうでもいいので覚えていないけど。
 どうも、僕が来たせいで彼の仕事は減ってしまったらしい。それに比例して、部隊内での彼の重要度も下落する一方。
 ぶっちゃけあいついらなくね? なんて陰口もあるようだし、危機感を感じているのかもしれない。根源は完璧に僕なので、彼の苛立ちをぶつけられるのも当然といえば当然だろう。
 辞書片手に訳そうとする中学生と、ネーティブスピーカー。どっちが正確で迅速かと訊かれれば、前者を選ぶ人間はいない。
 だからこれは仕方のないことであって、それが嫌なら僕以上の能力を身に付ければ良い――なんて言うのは、ただの傲慢だろう。
 僕はたまたまそれを身に付けていただけであって、彼のように多大な努力と時間を費やしてはいない。……彼が有能かどうかは別として。
 自分の力で手にいれたわけではないものが、僕に相応しくないものを引き寄せていた。
 地位であったり、名声であったり、あるいはお金であったり。この部隊の中だけに限られたものではあったけれど、国に帰ればそれはさらに大きくなるのだろう。
 彼が立とうとしていた場所。手に入れたいと思っていたもの。それを、いきなり現れた子供に奪われる。彼にしてみれば悪夢以外の何者でもない。僕はどう考えても邪魔な人間だった。
 かといって、じゃあ僕は去りますね、なんて言えるわけもない。
 地位やら名声はどうでもいいけど、食事と安全は耐え難い魅力だった。スライとの間にどうしようもない気まずい関係を保ちつつ、僕の毎日は過ぎているのである。正直、めんどくさい。
 ぐちぐちと投げられる言葉を、さっさと仕事しようよと思いつつもへこへこと受け流す僕の横で、ミリィはひどく不機嫌そうな顔をしていた。
 ミリィも彼のことが嫌いというのは知っているけど、なぜにそこまで不機嫌そうな顔になるのかは分からなかった。
 ピンと立った2つの獣耳がぴくぴくと動き、尻尾が苛立たしげにゆらゆらし、見事なおっぱいがぼいーんで……げへへ――っと、違う違う、おっぱいなんか見てないぞ。静まれ僕。落ち着け僕。
 となりの美少女をねっとりと観察していると、スライの愚痴もようやく終わりを迎えたようだった。最後の締めとばかりに、黄土色の瞳に蔑みの光を携えながら、スライは口を開いた。
「まったく、これだから<異人>は」
 ぼそりと吐き捨てて背を向けたスライに、ミリィの我慢が限界を超えたらしい。
 小生意気さを感じさせていた瞳が、一瞬にして危険な光を宿した。それは命を狩る側の、獣としての瞳だった。
 八重歯というよりも牙に近いそれが下唇を噛む。ミリィは体勢を低くして、今まさに獲物に飛び掛からんとする虎のように構える。
 あ、これはヤバイ。
 ひどく冷静に観察していた僕は、突き出されるような形になった肉付きの良いお尻から上に伸びた尻尾を、がしっと掴んだ。
「ふにゃぁっ!?」
 びくん、と仰け反ったミリィの口から、ひどく色っぽい、男には非常に悩ましい声が漏れた。校内放送とかで流したら男子はしばらく立ち上がれないレベルだ。
 だが、ぷるんと揺れたおっぱいには勝てない。そして僕の目はその瞬間を逃さない。ぷるん。
「ちょ、アンタ――ゃ、ぁ!」
 にぎにぎ。
「まあまあ、落ち着こうよ」
「落ち、着こう……って、ぁ、ぁ……!」
 にぎにぎにぎ。
「んぁ……! し、尻尾はやめて……ぇ、ん!」
「ぐへへ。良い声で鳴くじゃねえか」
「あとで……ひぅっ! 覚えてぁ、ぁ……ぁぅん!」
 言葉にならない言葉を聞きつつ、白い肌がほんのりと赤く染まっていくミリィをまったり見る僕である。尻尾がある限り、きっとミリィはMだろう。マゾ的な意味で。
 もだえる美少女ってたまりませんなあ、とトリップしていると、ひどく冷静な声が掛けられた。
「……なにをやってるんですか、あなた方は」
 こめかみの辺りをぴくぴくさせたスライが、ゴミを見るような目で僕らを――正しくは僕を見ていた。
 しかし残念だ。僕がマゾヒズムの持ち主であったなら「快・感♪」とかちょっと危ない方面の感想も持てたのかもしれないが、どっちかというとSよりな僕としては不快なだけだった。
 しかし真っ向からやり合うつもりもないので、僕が適当にへーこらしつつ誤魔化すと、スライは「ふん」と言いつつ歩いて行った。さっさと付いて来いということなんだろう。
 これ以上スライの神経を逆なでするのも不味いので、さっさと付いていくことにしよう。
「んじゃ、ちょっと行って来るから。帰りもヨロシク!」
 地面でぐったりしているミリィをその場に残して、僕はスライの後を追った。
 後ろで「あとで……コロス……」とかなんとか、ひどく物騒な発言が聞こえた気がしたのだけど、多分気のせいだろう。こう、命を狙われてる感じのゾクゾクっとした寒気も感じるけど、これも気のせいのはずだ。
 きっと、たぶん。希望的な観測だけど。
 ……後でどうやってご機嫌を伺おうかな……肉の塊で許してくれるかなあ……。
 結構マジな死活問題だった。
 しかし、さっきはなんでミリィが怒ったのだろう。馬鹿にされたのは僕だけだったはずなんだけど。僕の代わりに怒ってくれたのかな。良いヤツだし。

 <異人>という言葉は、大陸外からやってきた人間、という定義らしい。
 それはこの国で僕を表す言葉のひとつだ。けれど、滅多に聞くことはない。
 この世界で、それは一種の差別用語のようだった。生憎、詳しいことは分からないので、その言葉がどの程度の侮蔑を込めたものなのかは分からない。
 だけど、スライ以外に僕に対してこの言葉を使う人はいないし、<異人>という言葉を聞くと大抵の人は眉をひそめる。時にはミリィのようにスライに掴みかかろうとする人もいる。
 そのことから考えるに、これ、結構ひどい類の言葉なのかもしれない。僕にとってはよくわからないので、スライには少し申し訳ないのだけど。ごめんね、その悪口は全くのノーダメージなんだ。
 前を歩くスライの背中を眺めながら、僕は左腕にはめた腕輪をさすった。
 異人を見分ける方法は至極簡単。腕輪をしているかいないか。それだけだ。
 この腕輪は、言語体系の違う人間であってもある特定の言語を理解させることができるというアイテムだ。
 青い猫型ロボットの秘密道具を彷彿とさせる優れものだけど、原理は<科学>でなく<魔法>だ。これは非常に異世界らしいのだが、この世界では<科学>というのは神話の中だけの存在だった。
 ここは科学の代わりに魔法文明が発達した世界なのだ。それなんていうファンタジー。
 腕輪をつけていれば、僕が日本語を話す感覚でこの世界の言葉を話せるし、相手の言葉も日本語のように聞こえる。
 残念ながら読み書きは出来ないのだが、この辺りの地方は識字率がそう高くないようなので、あまり苦労はしていなかった。
「ここです」
 クレーター状に発掘されたその場所は、あちこちに崩れかかった建物や、その残骸が見えていた。
 僕には想像も付かないような長い時間を過ごした存在が、今、姿を現している。
 それは真実を求める人間にとっては非常に感慨深いものなのかもしれない。だが、僕にかかれば「うわあ、映画みてえ」という感想で終わりである。ちょっと申し訳ない。
 大勢の人が砂と土を運び出していく光景を傍に置きながら、僕はその一角の壁面に目を向けた。
 その中心に、縦に2m、横に3mくらいの長方形があった。汚れたそれはただの壁のようにも見えたけど、多分ドアだろう。銀行とかにある感じの自動ドアみたいな気がする。
 そのドア的なものの横に、僕の目線の高さで古代神言語こと日本語が書かれていた。
「これです。私が見るに、この建造物への出入り口なのではないかと思うのですが。数人で押しても引いてもビクともしません」
 力任せでやるなよ。壊れるだろうが。というツッコミはしちゃいけないのだろうか。しちゃいけないんだろうなあ。
「そこで私は考えました。魔力による識別を行っているのか、あるいはパスワードか何かが必要なのではないか、と。ここを見て下さい。古代神言語の数字が4つで1組として、4組記されています。つまりこれが重大な鍵となっているとは思うのですが、これ以上は情報が足りません。<火 金 土 日>という、魔法元素を表す古代文字が記されているので、何かしらの魔法を使用するのではないかという推測は出来たのですがね。もしかすると、これはもう機能していないのではないでしょうか」
「はあ、なるほど。そこまで判明していれば後は簡単ですね」
「ええ、そうでしょう。先生″は私の推測を後押ししていただければ結構です」
 満足げに頷くスライは放っておいて、僕はさっさと終わらせることにした。
 言わずもがなだけど、僕は生粋の日本人なので、ぶっちゃけ今すぐにでも読み上げられる。だが、それはちょっと不味い。
 こういうのは雰囲気が大事というのもあるのだけど、他の大陸から来た人間が、いきなりスラスラと読めて書けてというのは見るからにおかしいだろう。
 ここでの僕の肩書きはあくまでも「学者」であって、「日本人」ではないのだ。
 日記とかメモを日本語で書いていることがバレたら、ちょっと面倒なことになるかもしれない。今のうちから誤魔化し方でも考えておいたほうがいいかな。……まあ、ミリィにはもうバレてるんだけどさ。
 肩に掛けていたトートバッグを下ろし、中から手のひらサイズの手帳を取り出す。ペラペラとめくって適当なページを開く。
 壁面に記された文字と示し合わせるようにして、僕は手帳と壁面を交互に見る。指なんかも添えちゃって、「これは……なるほど。そういう意味か」とかなんとか、それっぽく呟いてみたりして。
 気分は劇を演じる役者だった。まるっきり大根なんだけど、これがまあ、周りから見るとそこそこさまになっているらしい。
「おい見ろ。キリシマ博士が解読してるぜ」「やっぱすげえな。神世の言葉を理解なさるなんて」「スライのヤツつっ立ってるだけじゃねえかwwワロスwww」「……いい尻だ」「まるで少女のような子だというのに、大人顔まけじゃのう」「全くだ」「もしかしたら女なんじゃないか?」「馬鹿野郎。あんな可愛い子が女の子のはずがない」「うっ……ふぅ。お前ら落ち着けよ、みっともない」
 途中から聞かないことにしたけど、なぜか身の危険を感じる。こう、貞操的な意味で。これからはできるだけミリィから離れないようにしよう。うん、そうしよう。
 固く決意しながら、僕は適当に手帳を眺めた後、パタンと閉じた。
「どうやらその通りみたいです。これはもう機能していないようですね。壊しちゃいましょう。ただの扉ですし」
「そうですか。やはり私の考える通りだったようですね」
 満足げに頷くと、スライは人を集めるために声を上げた。その声に応じて、そこかしこから手に凶器を携えた人たちが集まってくる。
 周囲がちょっとだけ賑やかになるのを感じながら、僕はもう一度壁面の文字に目をやった。
 書かれた文字は所々が風化していて読めないが、大まかな意味は理解できるものだった。
 これは、何かしらの施設の説明を記した看板だ。日本語で記された、日本の施設。今までにも何度か感じた疑問だったが、僕は再び問いかけていた。
 これはどういうことだろう?
 残念なことに、その問いに答えてくれる人はどこにもいない。

   ××所
   ×用×
   ×回/1××××
 
   運営時×
   火・金×日
   08:×0〜1×:×0
   ×4:00〜×3:00
   土曜日
   ××:00〜12:00
   13:×0〜×4:×0  
 

 2/白いお姉さん

 隠れることは無意味だ。それが今までの少なくない経験から導き出された答えだった。
 ミリィは鼻が良い。テントの中にいるというのに、その日の晩御飯が何の肉かを判別できるほどに鼻が良い。食い意地張ってるだけじゃないの、とかは言っちゃいけない。あれでも乙女なのだ。
 本当は物陰にでも隠れて休みたかったけれど、止まれば捕まってしまう。だから僕は、貧弱な心臓と四肢を必死に動かして走っていた。バッグが揺れてひどく走りにくいのだが、この中に僕の全財産を詰め込んであるため捨てることはできないし、これが無かったところで結果が変わるとも思えなかった。
 そう。これはすでに結果の決まった勝負なのだ。
 僕が逃げ、ミリィが追いかける。その発端に違いはあれど、行き着く先はいつも同じだった。すなわちふるぼっこである。種族的な問題が第一であったとしても、普段から部屋でごろごろしている奴と毎日運動している奴が追いかけっこをすれば結果は明白だろう。
 しかし、僕はそんなことには負けないのである。男の子の意地なのである。結構、必死なのである。
 正直、命がけの追いかけっことかだるくてやりたくないのが本音だ。でも、僕の悪戯衝動は抑えられない。ミリィという人間を見ると、ついついやってしまうのだ。基本的に古代神言語なんてやたらめったら出てくるものでもないし、そうなると僕はすごい暇だし。いや、暇だからって命はかけたくないけど。
 まあ、これはこれで僕とミリィなりのスキンシップと言うか、寂しがりやのミリィに僕が付き合ってあげてるみたいな感じかな。まったく、ミリィも仕方ないなあ。はっはっは。後方から殺気がひしひしと伝わってくるんだけどさ!
 ミリィはいちいち「待てー!」とか「止まりなさい!」とかは言わない。黙々と追い詰めてさっさと狩るタイプである。主人公達が長々と変身している間にぶん殴ってくるような奴である。空気が読めないとかじゃなく、シンプルなのだ。弱肉強食的な意味で。
 今はまだ人ごみが壁となっているけど、そう長くは続かない。早急に次の手を打つ必要があったが、僕に残された選択肢は多くない。
 遺跡発掘で長期滞在中のアルレドを目当てにやってきた行商人たちが店を開き、辺りはちょっとした市場になっていた。もうすぐ夕食ということもあって、あちこちから肉を焼く音や、香辛料の匂いが漂ってくる。いっそ食べ物で懐柔しようか。いや、ここら辺のお手軽料理で許してもらえるとは考えにくい。となれば良いお肉を買うしかないけど……。
 荒く息を吐きながら、行き交う人の群れの間を縫うように走る。
 空の端がほんのりと暗く染まり、夜の訪れが近いことを告げていた。頭上高くでゆったりと歩くいくつもの雲を追い抜きながら、僕はそろそろ限界が近いことを感じていた。幾たびも繰り広げられた追いかけっこによってそこそこ鍛えられたはずなのだけど、それでも基本的なポテンシャルが低いのが僕という人間である。活動時間はあまり長くない。
「……と、なると」
 ここら辺で妥協しておくべきだろう。幸いにして、ミリィに献上するに相応しい値段と味を誇るお肉の扱い店には心当たりがあった。懐への打撃は大きいが、中々良いお給料を頂いている現在の僕にしてみれば痛い出費というわけでもなかった。これで命が買えるなら安いものだ。
 あとはお肉を手に入れるのが先かミリィに追いつかれるのが先かだけど、これはもう天命に任せるしかない。悪運は強いほうだとは思うので、まあなんとかなるだろう。
 ―――とか考えていたら、驚くほど簡単に目的地についてしまう。一応うしろを確認してから、僕はその店の中に入った。
「いらっしゃい、ヒロくん」
 まるで人が来るのが分かっていたかのようなタイミングと、それが僕であることを知っていたかのような優しい呼びかけ。駆け込んだというのに、その人に驚きはなかった。
 ワンルームに等しいくらいの小さなお店は、ひとりの女性のお城である。壷に入った刀剣や、小さな棚に並べられている鉢植えの薬草。壁にかけられている真っ赤な服はどこかの民族衣装だろうか。あっちこっちを気の向くままに旅して、そこで仕入れた珍しいものをまた別の土地で売る。自称「旅するお店屋さん」の店主は、綺麗なお姉さんである。
「どうも、ルルさん」
 一見しての感想は、白。いやパンツがじゃなく、本当に白いのだ。長い髪は白銀の光を紡いだかのように輝いているし、そこから伸びるふたつの獣耳も銀色の毛並み。しなやかな肢体は染みひとつない純白の着物で包まれている。おまけに肌まで雪のような白さで、初めて会った時は大口を開けて見惚れてしまったほどだ。
 ウォルフ族というからたぶん狼かなにかなのだろうけど、ルルさんはとても穏やかな人である。そしてとてつもなく美人である。あまりの美人さと気品に、僕は1m以内に近づくことができないくらいだ。
 たぶんルルさんの周りには聖域が張ってあって、穢れた僕という存在は踏み込めないとか、そんな感じなんだろう。
 ルルさんは、やんわりとした深い海の色の瞳で汗だくな僕を見ると、大まかな見当をつけてしまったらしい。
「またミリィちゃんと追いかけっこ?」
「……あはは」
 とても楽しそうに言われてしまったので、とりあえず笑ってごまかしておく。そんな僕を見てくすくすと控えめな笑い声が響いた。
「仲が良いのね、ふたりとも。でも、あんまりいじわるばかりしてちゃ嫌われちゃうわよ?」
 悪戯っぽく微笑む美人のお姉さん。正直、僕はもうメロメロである。自分が「その胸で包み込んでくださいお姉さま!」とかとち狂ったことを叫んでルルさんに抱きつこうとしないかが心配で仕方ない。
「性分なもので。それにミリィの反応がおもしろいからついつい」
「あ、それはちょっと分かるわ。ミリィちゃん、可愛いものね。抱き締めたくなっちゃう」
 えへーっと頬に手を当てるルルさんを見て、僕の中の何かがぴしりと音を立てた。
「僕はルルさんに抱き締められたいです」
「え?」
「あ、独り言なのでお気になさらず」
 瀬戸際でひびを修復した僕は、こくんと首を傾げるルルさんに、にこにこと笑って見せた。
 僕は忘れていた。ここは魔界なのだ。知らず知らずのうちにルルさんの魅力に引きずり込まれてしまう恐ろしい領域。というより、ルルさんが魔性の人だろうか。
 以前、怖い人に難癖を付けられたことがあったのだけれど、通りがかったルルさんが二言三言話すと、怖い人はでれでれのだらしない人になってしまった。しかもルルさんに言われるがまま、僕にしっかりと謝罪をしたのだ。その人はそのままルルさんに連れて行かれてしまったのでどんなマジックを使ったのかは分からないけれど、明確なことは2つ。気を抜くといろんな意味で危ないということと、ルルさんは逆らっちゃいけないタイプの人ということである。
「それで、今日はなにをお探しかしら? 装飾品でも贈ってみる?」
 ほわんとした笑みでルルさんが訊く。ミリィとの追いかけっこでどうしようもなくなったときに、僕はここでいろいろと買って行く。そのため、話がとても早い。
「えっと、今日はお肉にでもしようかなーと思いまして。何かないですかね、美味しいやつ。多少お高くてもいいので」
「美味しいお肉ね」
 顎に白い指を当て、ルルさんはぽんやりと虚空を見上げた。思い当たるものが見つかったらしく、胸の前で両手をぽんと打ち合わせる。
 普通であれば体型を寸胴にしてしまう着物ですらその豊かな胸は押さえ切れないようで、どーんと主張する膨らみに僕の視線は釘付けである。
「ゴスファングのお肉はどうかしら。今朝仕入れたばかりだし、なんと珍しい胸部のお肉なの。大きくて柔らかいのよ」
「たしかに、大きくて柔らかそうです」
「とっても美味しいんだから」
「たしかに、美味しそうです」
 僕はルルさんの胸を凝視したままこくこくと頷いた。
「こらこら。そっちの胸じゃないの」
 僕の視線に気付いたルルさんが僕の額をぺちりと叩いた。不躾な僕の視線にも、こにことと笑っている。まるで出来の悪い弟を持ったお姉さんみたいだった。
「すいません。つい視線が」
 頭を下げて謝ると、人差し指を立てたルルさんが諭すように僕に言う。
「ヒロくんが見つめるべきなのはミリィちゃんのお胸でしょう? じっとりねっとりとね」
 あれ? おかしいな。変な幻聴が。
 思わず耳をほじくる。閉月羞花もかくやという清雅なルルさんが、まさかそんなことを言うわけが……。
「はい、お肉。ちゃんと仲直りするのよ?」
「あ、はい」
 そこにいるのは真っ白な獣耳の巨乳お姉さんで、冬の朝のような澄み切った気配を纏うルルさんに違いなかった。やはりさっきのは聞き間違いに違いない。ほっと息を吐く。
「がんばって押し倒してね。きっとミリィちゃんも満更でもないだろうから、そういう雰囲気に持ち込めばなんとかなるわ。獣人族は耳と尻尾が弱いから、責めるのはそこ。じっとりねっとりとね」
 どうやら僕は疲れているらしい。こんな妄想みたいな幻聴が聞こえるなんて。かなりの重症のようだった。
 ルルさんにお肉の代金を払って、僕はさっさと戻ることにした。今日は早く寝よう。それできっと、全てが夢になるはずだ。そうに違いない。僕はそう信じている。

モクジ
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