モクジ

  小説ができるまで  


 1

 外を眺めるのにも飽きてきた頃、ぎいっと錆び付いた蝶番の悲鳴が聞こえた。ドアに目をやると、こよりが入ってくるところだった。リボンタイを外して襟を開けた夏服に、それなりに短いスカート。アルマジロよりも愛想のない顔立ち。 吊り上がり気味の瞳はいつも通り無感情なせいで、単に目つきが悪いようにしか見えなかった。薄い茶色の髪を思い切ったボブにしているせいかひどく小生意気に見える。
 こよりは僕の座る長机までやってきて向かいの椅子に鞄を置いた。そこから一枚のプリントを取り出し、僕の前に差し出した。僕がプリントを受け取ると、こよりは鞄を床に置き直してそのまま椅子に腰を下ろす。
 こよりは何も言ってこない。僕は目の前の薄っぺらなプリントを読み上げた。
「文芸部活動報告書提出期限のお知らせ。よくもまあこんなに漢字を並べたね」
「あと7日だから」
 こよりは素っ気なく言った。机に頬杖をついて、携帯をカチカチとやりながらの台詞だった。こよりにとってはなんてことのない、面倒な通告のひとつなのかもしれない。しかし僕にとって、ひいては文芸部にとってはそれなりに重要なことだった。
 嘆息した僕をちらりと流し見て、こよりは念を押すように言った。
「それを過ぎたら、ここ、廃部ね」
 僕とこよりは俗に言う幼なじみの関係だった。同じ病院で生まれてからの付き合いだから、ざっと17年になる。
 いくら家が隣同士だからといっても、男女には特有の機微というものがあり、それは大概にして男女の関係を複雑にさせる。けれど僕らは、どうにもそこらへんには頓着しない性質というか、好いた惚れたといっためんどくさいことが苦手なのだった。こよりはこよりでいつも愛想がないし、僕は僕で本があればそれで十分というような人間なものだから、たぶん相性が良かったのだろう。これといった大きな問題が立ち上がることもなく、僕らは至ってどこにでもいる幼なじみという関係でやってきた。
 しかし、今年になり、その関係に少しだけ変化が訪れた。
 こよりが生徒会に入ったからだ。初めてそれを聞いたときには、堅苦しいことが大嫌いなはずのこよりが組織に所属するということに大変な驚きを覚えたものだった。
 僕の予想に反し、こよりはそれなりに熱心に生徒会の活動を行っていた。たとえばこのように、僕に脅しをかけてくるのだ。あと7日で、あと6日で、あと5日で。廃部廃部廃部。そこに感情らしい感情はなくて、それが逆に怖い。こよりの全身が言葉通りに実行するという雰囲気を宿していた。
「それで、間に合いそうなわけ?」
 こちらをちらりとも見ずにこよりが言う。カチカチとやっているアイボリーの携帯には、相変わらずストラップのひとつも付いていない。
「どうだろう。書くだけならそりゃすぐにできるけど」
「ならさっさとやりなさいよ」
「露草先生が良しというようなものが書けるかどうかとは、また別問題なんだ」
 露草彩夏先生。数学教師なのに文芸部顧問というちょっと変わった人であり、そして文章にとても厳しい人でもあった。
 文芸部顧問だからといって小説に詳しい人であるとは、もちろん限らない。文章についてまったくの素人がやることも往々にしてあるだろう。けれど露草先生は生粋の文学少女だったらしい。大学の頃は文芸部に所属していたという話も聞いたし、いつも文庫本を持ち歩いているという話も聞いていた。とにかく小説が好きな人だった。なんで数学教師になったのか不思議なくらいである。
 そのことについて一度聞いてみたところ、露草先生本人は首を傾げて言った。
「……流れ?」
 流れで教師になれるのか僕には不思議でしょうがなかったけれど、きっとそういう人なのだろう。海の上にぷかぷかと浮いている小船のような人なのだ、露草先生は。
「その露草先生が良しと言わないと活動報告書も書けないわけ?」
 こよりが机の上のプリントを指でトントンと叩きながら言う。
 僕は無言で頷いた。
 文芸部の活動は単純で、つまり何かを書くことだ。小説でなくたって構わない。俳句とか、短歌とか、甘ったるいポエムでもいい。僕の場合は小説で、そしてたまたま露草先生は小説に一見識ある人だった。おかげで僕の小説はびしばしと修正されているが、作品らしい作品を仕上げるのにはもちろんそれ相応の時間が費やされていた。
 ところで、文芸部は大変危うい立場にあった。ここ美氷学園では部員4名以上が部活として認定される絶対条件だというのに、文芸部の部員は現在のところ僕一人っきりなのである。
 それなりに大きな学園であるので、もちろん部費だって支給されている。だからそこらへんの条件は厳しいし、例外的措置というものはあまり認められない。
 それでも我が文芸部が未だに部と名乗れているのは、生徒会の予測を越えた速さで部員が減ってしまったからだった。3年生が卒業したことで、残った部員は4名。さらにそこから2人の部員が家庭の事情で引越すことになってしまい退部。もうひとりは今年新設されたという「ライトノベル研究会」通称ラノ研に移ってしまった。最後のひとりはもちろん僕である。
 その時点では僕もまだ楽観的だった。新入部員が3人いればいいのだ。毎年300人を越える入学者がいるのだから、まさか3人も入部者がいないとは考えもしなかった。
 しかしこれも時代の流れというものだろうか。文芸部という古くさい、ともすれば野暮ったい響きに興味を惹かれる人はほとんどいなかった。小説が好きというような人も大抵は新設されたラノ研に行ってしまう。近頃の高校生にとって小説と言えばライトノベルであり、それを文芸と呼ぶには些か抵抗があるようだった。
「なんでもっと前に書いておかなかったのよ。締め切りでそうやって唸るのはいつものことなんだから、学習しないの?」
 携帯をいじりながらこよりが言う。辛辣だった。僕ちょっと泣きそう。
「ええっと、忘れていたというか、忘れようと必死に努力した結果というか、もしかしたら急に文才に目覚めたりしないかなあと思ったりしなかったり」
「馬鹿なの?」
「まさか。しかし文学というのは大変に奥が深くてね。自らの心と対話をしようとしていると、気付けばあら不思議、時間が飛んでいるんだ。本を読んだりご飯を食べたりお風呂に入った記憶しかないのに。時間とは恐ろしい」
「あんたの頭の中が恐ろしいわよ」
 手厳しい。さすが、「顔は良いんだけど性格がキツ過ぎる」と男子に好評のこよりだった。僕にだけ特別というわけではなく、こよりはいつだってこんな感じだ。
「間に合うわけ?」とこよりが言った。
「たぶんね。内容が良ければ」
「ふーん」
 それっきり、会話は途切れた。こよりは携帯をカチカチとやっていた。温い風がカーテンを揺らし、時計が正確に時を重ねていた。
 暇つぶしに使えそうなものも見つけられず、僕は仕方なくネットブックと向き合うことにした。適当にキーを打ち込むと、暗くなっていた画面が切り替わり、文字で半分ほど埋まったテキストエディタが現れた。その続きを埋める意志が自分にあるのかどうかが怪しかった。
 それでも書き上げなければ、やがてこの部室ともお別れになるだろう。
 今のところ、文芸部はまだ部として存続していた。露草先生という顧問もいるし、たったひとりだけれど、残された僕という部員だっている。加えて、学園創設時から存在している文芸部というものを取り潰すことに、老境の教師はあまり良い顔をしていない。
 けれどやはり、それも時間の問題だった。
 ラノ研という部活が出来てしまったからだ。
 扱うものがライトノベルであれ純文学であれ、それが小説ということに変わりはない。事実、こっちは部員ひとりで、向こうはたくさん。学生にとっての需要は明らかにラノ研だった。
 ラノ研があるのだから文芸部は必要ないのではないか、統合すればいいのではないか。そんな話がちらほらと出ているとも聞く。
 だから僕は文芸部だからこそ出来る活動をしていた。書いた小説を部誌として発行することにしたのだ。部員は僕ひとりなので、もちろん全部僕が書くしかない。薄っぺらなものでは印象が薄いので、それなりの厚さを持った、言わば僕の短編集みたいなものだった。
 ラノ研はそんなことはしていない。だからこそ、文芸部は文芸部としての存在を、今のところは認められていた。
 部誌を発行していれば、少なくとも時間を延ばすことができる。これだけ活動しているのだからと言い訳ができる。事態は何も解決していないし、ただの悪あがきかもしれない。それでも、それが僕にできることだった。
 そして夏季の部誌の発行日が、もうすぐそこに迫っていた。
 こよりがさっき指で叩いたプリントを見つめる。
 活動報告。
 僕はこう書かなければならない。夏季の部誌をちゃんと発行しました。文芸部の活動です。ひとりだけどこんなに活動しています。だからもうちょっとだけ廃部とかは待ってください。
 しかし、最後を飾る短編が未だに出来ていなかった。期限はあと7日。土日を挟むので、不可能な締め切りではない。けれどそれは筆の進むようなネタがあることが前提で、今の僕の頭の中はすっからかんだった。1週間前に苦労して別の話を書き上げたばかりなのだ。
 僕は大きく息を吐いた。ため息というよりも、めんどくさいことを纏めて吐き出すような感じ。
 それを聞きとめたこよりが僕を見る。
「書けないの?」
 僕はまず言い訳を考えた。けれど、こよりの目を見てしまって、正直に言うことにした。瑠璃色の瞳はいつも澄んでいて、それを見ると僕は嘘がつけなくなる。全部見透かされているような気になってしまう。
「まあ、うん。このまま書いても、ますますつまらなくなるだけかな」
「なんで」
「なんで?」
 僕は首を捻った。言われてみればなんでだろう。
 つまらないというのはわかる。けれどそれを言葉にして説明するのは難しかった。
 小説は石を積み上げるという作業に似ている。ある程度積み上げなければ実際の形は分からないし、形が分かるところまで積んでしまうと大きな修正はできない。どこが悪い、というよりは、全体的に悪いのだ。少しずつ、あちこちで。
 そんな風に説明しようかと思ったけれど、やめておくことにした。
 本当にそうなのか自分でも確信がなかったからだ。
「ネタがないから、かな」
「ネタ?」
「そう。面白く書けるようなネタ」
 苦し紛れに口に出したけれど、その理由も悪くなかった。事実その通りでもあるわけだし。
 こよりは僕の言葉に「ふーん」と返して、それっきりだった。こよりはぽつりと思いついたように話題を投げかけたかと思えば、それが展開する前に打ち切ってしまう。それを自分勝手と捉える人もいるし、マイペースなんだろうと苦笑する人もいる。僕にとっては慣れたことなので、今さらどうこうと思うことはなかった。
 こよりが携帯を打つ音を聞きながら、僕は頬杖をついてこよりを眺めた。 
 薄手の制服は襟が開けられ、細い首の付け根にすっと鎖骨が浮かんでいる。窓から吹き込んだゆるい風に薄茶色の髪が涼しげに揺れている。染めているわけじゃなくて、昔から茶色っぽい髪なのだ。
 しばらくそうしていると、こよりが不意に視線を上げ、僕と見つめ合うことになる。
「なに」
 もちろんこよりは気恥ずかしそうに目を逸らすとか、頬を染めるとか、そんなわけはなかった。文句でもあるのかとばかりに眉をひそめ、僕を問い詰めるように言う。
 僕はにこりと微笑んでみた。
「いや、こよりはかわいいなあと思って」
「ナンパは他の頭悪そうな女の子にでもしたら? それを書き終わってからね」
 ツンだった。野良猫に餌を差し伸ばしたら鼻で笑われたようなせつなさだ。僕は消沈して続きを書くことにした。
 キーの上に指を置き、打ち込む言葉が浮かんでくるのを待つ。
 けれどいくら待っても言葉は浮かんでこなかった。集中力が切れていたし、正直に言ってしまえばこれ以上書く気もなかった。少なくとも、無理してまで文字を打ち込む気力が残っていないことは確かだった。
 少し悩んでから、今日はやはり諦めることにした。
 書いたところまでを保存して、ネットブックの電源を切った。液晶が暗くなったのを確かめてからぱたんと閉じる。できることならもう二度とこれを開きたくない、そんな衝動が水泡のようにぷかりと浮かんだ。
 まあ、よくあることだった。ここにつまっているのは未熟な結晶なのだ。自分なりに精一杯を尽くしたものではあるけれど、荒削りなことに変わりはない。自分が作ったというだけで誇ることが出来たのは昔の話で、より良くするために客観的な目で見つめなおすこと出来るようになるのはまだ先の話だ。今の僕にとっては、見たくないけど見なければならないというあまり楽しくない話でしかない。
 僕はときどき、自分でも分からなくなる。何のためにこんなことをしているのだろう、と。部活の存続のためなのか、誰かに自分の表現したものを知って欲しいからなのか、それとも単なる暇つぶしなのか。
 あるいは、何かを書くということにもっともらしい理由が欲しいだけなのかもしれない。
 よく分からないけれど。
 翌日、金曜日の朝、教室。
 結局のところ、家に帰ってからあの話の続きを書くことはなかった。なんとなく、と言いうのも変だけれど、書く気がおきなかった。やる気の問題でもあるかもしれない。どうしようもないものをどうにかするというのは、かなり疲れるのだ。
 なにをどうすればいいのか見当もつかなかった僕は、他人に意見を聞いてみることにした。困った時の他人頼りってやつである。
 しかし、そういった相談のできる相手はほとんどいない。
 もちろん、完成したものはこよりだって読むし、学園内でだって誰かしらは読んでいるだろう。けれどそれはあくまでも完成した作品の話であって、書いている途中の、試行錯誤しているときのものを読まれるのはやっぱり恥ずかしかった。
 それに中途半端に構えられるとこっちとしても困るのだ。別に天啓を授けてくれとも言っていないし、あっと驚くようなアイデアも期待していない。せいぜい「おもしろい」か「つまらない」くらいの、率直で客観的な意見が聞ければそれでいいのだった。
 だから僕は昨日書いたところまでを印刷して、学校に紙の束という形で持ってきていた。恭介に読ませるためである。
 恭介というのは僕のクラスメイトで、なんとなく気が合ってよく一緒にいるやつだった。茶色に染めたぼさぼさ髪に、ネックレスと派手なベルト。お調子者といえばお調子者で、いつも子供みたいに笑っている。小学生の頃からバスケットをやっているらしく、おかしいほどに運動神経が良かった。その能力を存分に活かすために助っ人部という変な部活に所属していて、あちこちの運動部に出没しているらしい。
 そんなやつだから男子に人気があって、そしてもちろん女子にもモテる。クラスでも比較的地味な部類の僕と一緒にいるのが不思議なくらいのやつだった。共通点なんてこれっぽちもないと思うのだけれど。
「女の子だな。可愛い女の子が足りない」
 前の椅子に馬乗りに座った恭介は、原稿を読むなりそう言った。
 バスケ部の朝練に行って来たばかりのようで、タンクトップのむき出しの肩には薄っすらと汗をかいていた。首には小さなリンゴを模したネックレスがつけてあって、その上には桃色のタオルが掛かっている。きっとマネージャーの女の子が渡してくれたタオルだろう。恭介は女の子の知り合いがあちこちにいるのだ。
「可愛い女の子ってそんなに必要かな」
「必要だぞ、可愛い女の子。可愛いってところがポイントだな。可愛い女の子がいるだけで、男はもう夢中になる」
 やけに実感のこもった感じで恭介が頷いた。
「ほら、剣道部に加藤早紀っているじゃん? 黒髪をポニテにした、ちょっとキツめの子」
「ああ、うん」
 知らないけれど適当に頷いておく。
「剣道部って週一で合同練習があってさ、普段は男女別々なんだけど、その日だけは加藤と打ち合えるわけ。だからその日を狙っておれも行くのな。ちわっす、助っ人部です、一緒に練習させてください、ってな。他の男子に睨み効かせたりタイミングを見計らったりして、加藤と練習試合とかするわけだよ。でさ、これがまた良い匂いなんだよなあ。香水じゃねえんだよ。そういう作った感じじゃなくて、こう、自然な女の子香りっていうか? シャンプーと汗が混じった、なんつーか良い匂いなんだよこれが」
「ああ、うん」
 すっげえにこにこ笑顔で熱く語っているので、僕はもうなにも言えない。
 意外と知られていないのだが、恭介は匂いフェチのようだった。匂いについて語らせるとすごく長いのだ。しかも、対象はどうやら女の子だけではないらしい。前に「お前って意外と良い匂いだよな」とか言われたときにはどうしようかと思った。いや、ほんとに。
「あの匂いのためだけに、おれは週一で暑苦しくて重くてしかもちょっと臭い剣道具を着てられるわけだ。うん、やっぱ大事だな。可愛い女の子」
「よくわかんないんだけど」
 わかったのは、加藤さんが良い匂いで、その匂いのためだけに恭介が剣道部で練習しているということくらいだった。
 恭介はそれが心外だったらしく、僕の顔を見ながら「ばっかおまっ、ばか!」と言った。え、なに?
「今のですげえ伝わったろ、可愛い女の子がいかに大事かってのが」
「全然だけど」
「ほんとすっげえ大事なんだよ可愛い女の子! 良い匂いするだろ?」
「匂いと言われても、文章じゃ再現できないし」
「そこをなんとかしろよ! むしろしてくれ! おれのために!」
「ごめん、意味がわかんない」
 それでも僕に可愛い女の子の必要性を説明しようとして、恭介は口の中でもごもごと言葉をいじくっていた。けれど良い言葉が思い浮かばなかったのか、結局、机の上に置いていたシャツを着ることで誤魔化した。
 恭介との会話はよく横道にそれる。大体は恭介がそらす。話題が豊富というか、賑やかなのだろう。頭の中が。いや、悪い意味じゃなくて。
 僕は苦笑して、恭介の前に置かれている原稿を手に取った。僕の文章が印刷されたA4のコピー用紙十数枚ほどが、右上をホッチキスで留めてあった。枚数にすれば薄っぺらなものだけれど、たったこれだけを書くのにどれほどかかっただろう。
 ぺらぺらめくってみる。
 すぐに最後のページにたどり着いた。
 密室教室の中で2人目の被害者が発見されたところで、小説は途切れていた。ここから先はどうなるのだろうか。ここまで書いた僕にも分からなかった。プロットらしいプロットも作らずに書き出したので、予定は未定なのだ。密室にしたのはいいものの、どうやって密室にしたのかとか、そもそも犯人は誰なのかとか、そんなことでさえ決まっていなかった。
 最初の一歩から間違えていた気がする。
 どこへ行くかもわからないのに歩き出せば、そりゃ迷子にもなるはずだ。
「なに、そんなに切羽詰ってんの?」
 投げやりに原稿を閉じた僕に、シャツを着終えた恭介が言った。
「まあ、うん。よくよく考えてみると切羽詰ってるかも」
「どんな感じで?」
 僕は少し考えてから、まず親指をおった。
「期限はあと6日」
 次は人差し指。
「最低でも30ページ以上」
 さらに中指。
「そして露草先生が頷くような出来栄えじゃないといけない」
 追い討ちに薬指。
「僕の頭はすでにネタ切れ」
 止めに小指。
「この原稿はたぶん没になるかな」
 握り拳になった右手を見て、自分でも驚いた。
 絶望的じゃないか。
 楽観的に構えてはいたけれど、もしかするとこれは今までで一番の危機かもしれなかった。文芸部廃部の危機である。僕の放課後の居場所がなくなる危機である。大変だ。
 拳を見たまま動かなくなった僕に、恭介が呆れながら言う。
「お前それ、かなりきついんじゃねえの?」
「……そうかも」
「どうすんのよ?」
「どうしたらいいかな?」
 にへらっと引きつった笑いで訊ねると、恭介は首を振った。
「専門外」
 そりゃそうだ。自分が求めている答えを必ず誰かが知っているわけではない。それにこれは僕の問題なのだから、できない、わからないとどれだけ喚いていたって、結局は僕が解決するしかないのだ。
 じゃあ、僕はどうすればいいのだろうか。
 やることは明白だ。書くだけである。おもしろい話を、書く。それだけのことだ。そしてそれだけのことをするために、世界にはプロと呼ばれる小説家がいる。やることは簡単でも、成し遂げるのはとても難しいのだった。
「どこかに良いネタとかないかなあ」
 思わずぼそりと呟いた。
「ネタって、たとえば?」
 恭介が訊ねたとき、恭介のポケットの辺りからオルゴール調の音色が聞こえた。携帯のメール着信音だ。恭介はポケットから携帯を取り出し、ちらっと確認してから電源を切った。
「見なくていいの?」
「……姉貴だった」
 すごい渋い顔で言う。
 恭介には大学生のお姉さんがいる。茶色の髪を肩よりも伸ばした、今時の女子大生という感じ。きれいな人だった。そして恭介はどうやらお姉さんが苦手なようで、お姉さんの話題になるとこうして渋い顔をする。いろいろと弱みを握られているらしい。
「それならますます返事を出さないとまずいんじゃない?」
「いや、まあ、そうなんだけどさ……見たくねえんだよな。どうせあれだぜ、醤油が切れたから買ってこいとか、牛乳を買ってこいとか、そういうのなんだよ。ああ、間違いねえな」
「それってパシリなんじゃ」
 僕が言いかけると、恭介は机をノックするようにこんこんと叩いた。恭介の癖だった。話題を変えようの合図である。
「んなことより、今はお前の話だ。ネタがない、文芸部が廃部しそう、こよりちゃんと仲良くなりたい。そういう話だったろ?」
 待て、最後に余計なのが追加されてる。
「可愛いよな、こよりちゃん。あのツンと澄ました感じがまた良い。冬の朝みたいな雰囲気だよな。あれで性格がキツくなかったらお近づきになりたいんだけどなあ」
「知らないっての」
「お前ってばこよりちゃんと幼なじみなんだろ? 最高じゃん。男子で無条件に近づけるのってお前だけだぜ? おれなんか3m以内に近づこうとすると逃げられるし。野良猫みたいだよな。つうか、おれ、嫌われてんのかな……」
 勝手に話し出して、恭介は勝手に落ち込んだ。
 これ以上脱線するのも面倒だったので、僕は恭介を真似して机を2回ノックした。
「今は僕の話だろ? ネタがない、文芸部が廃部しそうっていうの」
「あ、ああ。そうだったっけな」
「ネタなんだよ。おもしろいネタさえあればなんとかなるんだ」
 きっぱりと言い切ることにした。
「ネタねえ」
 恭介は頬杖をつきながら言う。
「お前はミステリを書こうとしてるんだったよな。つうか、ミステリを書くには何が必要なわけ? ミステリの条件みたいなの」
「ミステリの条件か。なんだろう」
 僕は首を捻った。いつか読んだことのある本の言葉を思い出していた。
「魅力的な謎、論理的な推理、意外などんでん返し、かな」
「なるほど」
 なにがなるほどなのかは知らないけれど、恭介は何度も頷いていた。
 いつの間にか教室には人が溢れていて、がやがやと椅子を引く音や机がずれる音があちこちから聞こえた。昨日のドラマについての話、授業の予習の話、ノートを貸してくれだの嫌だの、弁当忘れただのざまあみろだの、そんな会話があった。今日も学園は平和なものだった。
 文芸部の危機なんて、誰も気付いてはいないだろう。係わり合いのない部活のひとつがひっそりと消えたところで、誰も困りはしない。当たり前のことだ。だから誰も助けてはくれない。自分のことなのだから、自分がどうにかする。それも当たり前のことだった。
 クラスの喧騒の中に予鈴が響いた。もうすぐ教師がやって来て、いつもと変わらない学校生活の一日が始まる。
「恭介」
「んあ?」
「ありがとね」
 僕の話をわざわざ聞いてくれたことに礼を言うと、恭介はにかっと笑った。
「おう」
 まあ、つまるところ恭介は良い奴なのだった。運動が出来て、イケメンで、女子にもモテて、匂いフェチの、僕の数少ない友人のひとりだ。

 2

 事件が起きた。
 平和で平凡でなんてことのない学校生活の一日にはそぐわない事件だ。といっても、それほど重大な事件というわけでもない。僕の原稿がなくなっただけの話だ。
 今日の3、4限目は体育だった。体育館で汗を流して帰ってきてみれば、机の中に入れていたはずの原稿がなくなっていた。まさか原稿が一人旅に出るわけもなし、おかしいなと思いながら、僕は机の中のものを全て机上に出した。各種教科書にノート、筆箱。入っているのはそれだけだった。やはり原稿は見つからない。
「教科書に挟まってんじゃねえの?」
 制汗スプレーをシャツの中に吹き掛けながら恭介が言う。
「まさか。A4用紙の束が挟まってれば見てわかるよ」
 それでも一応は確かめてみるが、やっぱりない。床に置いていた鞄を探り、周りに落ちていないか確認して、それでもやっぱりない。
 僕は首を捻った。
「なんでないんだろう。僕に愛想を尽かしたのかな」
「私、実家に帰らせてもらいます」
 妙な裏声で恭介が言った。思わず笑ってしまったが、笑い事でもない気がする。
 原稿は机の中に入れおいたはずだった。2限目が終わって教科書をしまうときにも、たしかにその存在はあったはずだ。
 体育の際には男子は教室で、女子は別棟の更衣室で着替える。うちの男子は体育が大好きなのか知らないが、着替えると早々に駆け出して行ってしまう。僕と恭介が教室を出たのは、最後まで残っていた数人と一緒だった。つまり、そのときまでは絶対に原稿は机の中にあり、それがどうこうなるような要因は存在しなかったはずだ。あるいは僕の記憶違いという可能性もあるけれど、そこまで耄碌はしていないと信じたい。
「おかしいな。本当になんでないんだろう。誰かが持っていくわけもないし」
「いや、それはどうだろうな」
「なんで?」
 恭介は下敷きをパタパタとうちわにしながら僕に言う。
「原稿を机に入れた。体育の前まではあった。お前が言うんだから間違いないだろ、記憶力すげえし。それなのに原稿は見つからないとなると、誰かが持って行ったって考える方が自然じゃね? おれらは体育で教室はもぬけの殻。誰がやったって分からねえだろ?」
「いや、まあ、そうだけど。誰がそんなことするのさ」
「それは分からねえよ。犯人じゃねえんだから」
「そりゃそうだ」
 恭介の言うとおり、誰かが持って行ったと考える方が自然ではあるかもしれない。確かに机の中にあったものが、体育から帰ってきてみればなくなっていた。原稿が自然にどうこうなる理由がないのであれば、人為的な可能性しか残らない。
 しかし。
「仮に誰かが盗んだとして、なんだって原稿なんか」
 恭介はううんと悩み、口を開く。
「嫌がらせ、とか?」
「僕ってそんなに嫌われていたのか……これでも控えめな人間だと思うんだけど」
「あ、いや、そうじゃなくてだな。ほら、むしゃくしゃしていて誰でも良かったとか、そういう可能性だってあるだろ?」
 ちょっと落ち込んで見せると、恭介が慌てて言い直す。なるほど、無差別の嫌がらせか。
 自分の行動で困るのであれば誰でも良かった、その対象が偶然にも僕だった。ありえなくはないかもしれないけど。
「それにしては中途半端じゃないかな。原稿なんてコピー用紙に印刷してるだけなんだから、盗まれたってまた印刷すればいい。無くなっても僕は大して困らないよ。第一、嫌がらせ目的で盗むのに原稿なんて選ぶかな。鞄にはネットブックも弁当も財布もあるし、教科書とかノートが無くなる方がよっぽど困ると思うけど」
「そこまでの度胸はなかったんじゃねえの? 金目のものを盗むと騒ぎになるし、教科書とかノートも教師に言われると問題になるかもしれない。だけど原稿ならいいか、と考えたわけだ」
「盗んだって別に持ち帰らなきゃいいんだし、嫌がらせ目的ならゴミ箱にでも捨てればいいんじゃないかな」 
 言ってからふと気付いた。
「そうか、ゴミ箱があった」
 立ち上がって、まだ着替え途中の男子を横切り、教卓を曲がって、教室の前方に置かれたゴミ箱を確認する。
 原稿なんて持ち帰ってもどうしようもない。自分が持っているところ見つけられてもまずいと考えるだろうから、ゴミ箱に放り込むという対処は十分に考えられた。もし僕ならそうする。
 けれど、ゴミ箱にそれらしきものはなかった。
「なんだよ、いきなりどうした?」
 駆け寄ってきた恭介に向き直る。
「もしかしたらゴミ箱にでも捨てられてるかなあと思って」
「なんでゴミ箱?」
「嫌がらせ目的でやったのなら持っていても邪魔なだけだろ?」
「ああ、なるほどな」
「ここに捨てられていたなら話は簡単だったんだけど……無いとなると他の教室か、廊下に据えられたゴミ箱かな」
 その数はあまりに多かった。少なくとも、ひとつひとつを確認するには時間も労力も掛かりすぎる。
 やれやれと頭を掻いた僕の前で恭介が携帯を取り出した。朝から沈黙を保っていた携帯に電源を入れながら、恭介はどこか楽しそうに笑った。
「んじゃ、聞いてみるか」
 あまりに軽い口調で言われたので、僕はちょっと呆けてしまう。
「聞いてみるって、誰に?」
 恭介は携帯を手早くいじった。どうやらメールを書いているらしい。やがてその動きが止まると、恭介は携帯を開いたまま教卓の上に置いた。
「困ったときは他人に頼りましょうってな。持ってて良かったお友だ」
 ち、と恭介が言ったところで、教卓の上で携帯が鳴った。オルゴール調の着信メロディ。恭介が携帯を取り、メールを開く。
「A組は外れっぽい」
 恭介が携帯画面を僕に見せた。メールの相手は裕美ちゃん。本文は「なかったよ」の一言に、なぜかハートマーク。どうやら他クラスの知り合いにメールを送って、ゴミ箱に原稿が入っていないかの確認を頼んだらしい。
 恭介にはお友達が多い。僕がひとつひとつ確かめに行くよりは、こうして分散して訊ねる方がずっと効率的だった。
 そこからはひっきりなしに携帯が鳴った。恭介が次々に読み上げ、候補はどんどんと減っていった。僕はそれを黒板に書きながら、半ば呆れていた。これはもう立派な情報網ではないだろうか。
 やがて携帯も静かになって、僕たちは黒板の前で腕を組んだ。
 黒板には「無い」と判断されたゴミ箱の箇所が列挙されていた。これだけの数をたった数分で確認出来たことに、僕はただ驚嘆していた。
 学園内に設置されたゴミ箱の総数は分からないので断言することはできないが、大半のチェックは出来たのではないだろうか。少なくとも、1年生から3年生までの教室のゴミ箱に無いことは確かだった。他学年まで網羅しているとは。逆に怖いな、恭介の情報網。
「これだけの数を確認しても無いってことは、まだ捨ててないのか、捨てるつもりがないのか」
「次はどうするよ?」
 携帯をポケットにしまいながら、恭介が訊いてくる。どうしようかな。
 しばらく考えてから、僕は頷いた。
「よし」
「おお」
「ご飯にしよう」
「お、おお?」
 弁当を持って、僕らは屋上に向かうことにした。
 教室棟とも呼ばれるこの校舎は4階建てであり、屋上は普段から閉鎖されている。4階から屋上へ続く階段はひっそりと人気がなく、そのせいか盛ったカップルがよくいちゃついていることで有名だった。誰もいないことを階下から確認して、僕たちは屋上へ続く扉の前までやって来た。
 恭介がポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。もちろん合鍵だった。
 恭介が言うには知り合いの鍵屋に頼んで作ってもらったというのだが、そうなるまでの詳しい経緯はよく知らなかった。僕も合鍵をもらってしまっているので、不用意に突いて藪から蛇が出てきてもらっても困る。
 屋上にでると、太陽の眩しさがより際立った。腕や顔にはじりじりと肌が焼ける感触すらあった。本格的な夏がやってくれば、屋上に来ることも少なくなるだろう。見晴らしが良くて空が近いので僕は気に入っているのだけれど、さすがに日焼けするほどの暑い思いはしたくなかった。
 念のため扉に鍵を掛けてから、屋上から突き出た階段室の日陰に座る。ふたりして壁にもれながら、恭介はパンを、僕は弁当を広げた。
 卵焼きをかじりながら、僕は恭介に言った。
「そういえば恭介さ、体育に行く途中で一回教室に引き返したよね?」
 屋上に来るまでに思い出したことだった。
 体育館に向かう途中、恭介はなにかに気付いたように「あ、やべ」と言って、降りてきた階段を上っていったのだ。
 コロッケパンをかじっていた恭介は、苦笑して胸元に右手を入れた。引っ張り出したのは、恭介がいつも付けている小さなりんごのネックレスだ。
「これを外すの忘れてたんだよ。体育の大田、こういうのに厳しいだろ?」
 なるほど。そもそも学校にネックレスというのも如何なものだろうかと思ったけれど、今は関係ないことだ。
 ジト目で恭介を見ながら、僕は言った。
「まさか犯人、恭介じゃないよね?」
「はあ? なんでおれが」
「だって誰もいないときに教室に戻ってるし、犯行は可能だよね」
「あのなあ」
 やれやれと首を振りながら、呆れた調子で恭介が言う。
「おれがお前の原稿盗んでどうするんだよ」
「む。それは確かに。でも、もしかしたら嫌がらせという線も……」
「お前がさっき言ってたじゃねえか。嫌がらせならもっと効果的なもんがいくらでもあるって。原稿なんか盗んだってどうしようもないだろ?」
「ちっ」
「おいこら、なんだその舌打ち」
「あーあ、恭介が犯人だったら簡単だったのになあ」
「あれ? なんでおれが悪いみたいな言い方になってんの?」
「ったくもう、空気読んでよね。そこは『へっへっへっ、バレちゃしょうがねえ』って言いながら原稿を取り出してみせるところだろ?」
「すいませんねえ」
 普段通りのとり止めも無い会話をしながら、僕は考えていた。恭介の言った通りだった。どう考えて原稿を盗んでだって仕方ないし、嫌がらせにしては地味過ぎる。盗んだ意図はなんだろうか。誰が盗んだのだろうか。
 あるいは、そんなことは関係ないのかもしれない。突発的犯行か、あるいは誰も盗んでいないという可能性だってある。どれも説明がつかないことだけれど。
「わからないな」
 思わず呟く。
「盗んだ犯人が?」
「もちろんそれもあるけど。もし誰かが盗んだとしたら、なんで盗んだのか。もし盗まれていないのだったら、原稿はどこに行ったのか。情報が少なすぎてどうとも言えないや」
 今のところ容疑者らしい容疑者は恭介だけで、そしてアリバイもない。だから疑うのであれば恭介なのだけれど、恭介が僕の原稿を盗んだって仕方ないだろう。恭介の言うとおりだ。
 結局のところ、現時点では謎を解く手がかりはないようだった。
「しょうがない、諦めようか。これ以上悩んでも何も進展しないだろうし」
 解けないものに頭を捻らせても疲れるだけなので、僕は割り切ることにした。まあいいや、ただの原稿だし。明日になればひょっこり出てくるかもしれないし、ゴミ箱の中で見つかるかもしれない。
 そのことに期待することにして、僕はご飯を箸で掬い上げた。口に入れる直前。
「実はな、祐樹」
 焼きそばパンの封を切りながら、恭介がおずおずと切り出した。どこか遠慮をしている様子。なんだろう。
「ひとり、いるんだわ」
 僅かな空白があった。なるほど。ひとり、いるのか。
 ところで、ひとりって、
「なにが?」
「犯人候補。容疑者っていうやつ」
 どうやら、話は進展するようだった。
 口に入れかけたご飯を弁当箱に戻して、僕は恭介に訊いた。
「誰?」
「秋空恋歌。ほら、保健室の主だよ」
「秋空さんね。……ごめん、誰?」
 記憶になかったので訊き返すと、恭介は呆れた様子だった。これ見よがしにため息までついている。
「お前な……青春真っ盛りの男子高校生が、可愛い女の子の名前くらい覚えとかないでどうするよ?」
「他クラスの女子まで覚えてるわけないだろ。ただでさえ人数多いのに」
「ばか。秋空はうちのクラスだっての」
「……あはは」
 笑って誤魔化すしかなかった。
 それでも言い訳させてもらえるのであれば、クラスメートと言えど、僕と女子の接点なんてほとんどない。顔と名前が一致していないし、係わり合いのない人の名前まで覚える気もなかった。
「えっと、どんな感じの人?」
「色白で背が小さくて無表情。愛想はないけども、会話はしてくれる。細長いツインテールが特徴的。体が弱いとかで、体育はいつも見学してるらしいな。柑橘系の澄んだ匂いがする」
 毎度のことながら、女の子についての情報には詳しい恭介だった。あと匂いの情報はいらないっての、この匂いフェチが。
 恭介の情報から、僕はクラスメートの姿を当てはめていた。
 細長いツインテールといえば特徴的なので、すぐに「ああ、あの子か」と思い出せた。情報と記憶が正しければ、秋空さんは窓際の席でよく本を読んでいた。カバーを掛けずにいたので、思わず本の表紙に目が留まった記憶がある。確かあの時は、法月綸太郎の「一の悲劇」だったはずだ。不意に目があったときに会釈をされたので、ちょっと驚いた気がする。
「それで、その秋空さんがなんで容疑者になるわけ?」
「おれが教室に戻ったときに、教室から出てくるのを見たんだよ。手に巾着袋みたいなのを持ってた」
「なるほど」
 その巾着袋の中に折りたたんで入れていた可能性もあるし、自分の机に移したということも考えられる。十分に容疑者のひとりだ。
「でも、秋空さんがそんなことするかな。接点がないんだけど」
「だからあれだ、誰でも良かったとかじゃねえか?」
 断言は出来ないだろう。
 僕は秋空さんについて何も知らないので、言えることはなかった。信用も出来ないし、疑うことも出来ない。僕は携帯を取り出して時間を確かめた。昼休みはまだ残っている。
「よし、話を聞きに行こう」
「は?」
 パックの牛乳にストローを刺そうとしたままの体勢でぽかんとする恭介。
 なんでそんなに驚いてるんだよ。
「どうせ話を聞かないとどうにもならないしね。悩んでたって話は進まない」
 残った弁当を食べる時間はなくなりそうだけど、まあいいか。一食抜いたところで力がでないというわけでもない。放課後に食べてもいいし。
 さっさと弁当箱を片付けながら、僕は恭介に訊ねた。
「保健室の主って言うくらいなんだから、保健室に行けば秋空さんに会えるのかな?」
「あ、ああ。たぶん」
「でも昼休みまで保健室にいるかな。まあいいや。それも行って確かめよう」
 弁当箱を手に立ち上がると、恭介はまだパンを手にしていた。膝の前に置いてあるビニール袋は購買部のものじゃなくて、学園に来る途中にあるコンビニのものだ。朝練に来る途中に買ったのだろう。
 立ち上がろうとしないことに首を傾げてみせると、恭介は顔の前で両手を合わせた。
「悪い。これから約束があるんだよ」
「女の子?」
「おう」
 モテる男は辛いね。べ、別にうらやましくはないけど。
「それじゃ仕方ないか」
 恭介に別れを告げて、僕は日陰から出た。中天に浮かぶ6月の太陽の光に目を細めながら、僕は扉の鍵を開け、ノブを握った。これから教室に戻って弁当箱を置き、階段を降りて保健室に向かい、そこでひとりの女の子と話さなければならない。
 知らずため息が漏れた。
 ろくな会話もしたことがない秋空さんに会って、なんて訊けばいいのだろうか。
「やあ、こんにちは。クラスメイトの日野坂祐樹です。ところで、僕の原稿を盗まなかった?」
 馬鹿げてる。
 女子と気軽に会話ができる恭介が付いて来ないというのは予想外だった。僕は恭介ほど女の子慣れしていないし、他人とすぐに打ち解けられるような性格もしていない。恭介が一緒に来てくれるだろうと思っていたので「話を聞きに行こう」なんて言ってしまったけれど、ひとりとなると辛いものがあった。
 行くのやめようかな。
 その案はとても魅力的に思えた。けれど同時に、この小さなもどかしさを解決したいという気持ちもあった。
 原稿がなくなった。ただそれだけのことだけれど、それだけのことであるがゆえに、謎がはっきりしないことがもどかしかった。分かりそうで分からないというのは、少し悔しい。
 秋空さんに話を聞けば、解決するのだろうか。解決、したらいいなあ。 
 溌剌とした陽光を背に浴びながら、僕は扉を開けた。

 3

「生理用品です」
 あまりに平然と言われてしまったので、僕は唖然とした。
 僕の心配とかすかな期待は杞憂だったようで、秋空さんは保健室にいた。白いテーブルクロスの掛けられた机の前に腰掛け、文庫本を読んでいる。こよりよりも随分と小柄で、椅子に座っている姿はちょこんという表現がぴったりだった。
 ドアを開けて入ると同時に向けられた瞳は無感情で、病的なほど透き通った肌と表情に乏しい顔立ちが日本人形を彷彿とさせた。
「なにか御用ですか?」
 秋空さんに訊ねられて、僕は言葉に詰まった。そこでようやく彼女に見とれていたことに気付いた。彼女が保健室の椅子に座っていることが非現実のように思えたからだ。テレビの向こうで華やかな衣装を着ていてくれいた方がよほど現実味があった。
 ああだかええだか判別に困るような声を返した僕は、妙な緊張感を感じながらなんとか事情を説明する。
「教室に何をしに行ったのか訊いてもいいかな。あ、いや、もちろん参考意見として」
「忘れ物を取りにです。必要でしたので」
「忘れ物?」
 そして秋空さんは眉ひとつ動かさず、言ってのけたのだった。
 少しばかり言葉を選ぶのに手間取った僕は、ぽかんと目の前の少女を見つめる。
 制服は第一ボタンまでしっかりと留められていて、黒のリボンタイもちゃんと付けられていた。すっと細い首が伸びていて、その上には小さな顔がある。瞳は相変わらず無表情に僕を見上げていて、どこからどう見ても普通のきれいな女の子だった。
 女の子って、そういうことを平然と言ってしまう生き物なのだろうか。
 僕の経験則ではなんとも言えなかった。女の子という未知の生物については無知にも等しい。恭介にでも聞きたいところだったけれど、僕の後ろにはもちろんいない。つまりどうしようもないということだった。
「ええと、うん。そっか。ごめん、変なこと聞いて」
「いえ。なんでしたら中身も見ますか?」
「はえっ?」
 なんだはえって。我ながらどっからこんな声が出てきたんだろう。
 僕の素っ頓狂な声にも秋空さんは無表情だった。秋空さんが喋るときには小さな唇だけが動くので、僕は少し不思議な感覚になる。ここまで平坦な人は始めてだった。感情も、表情も。
「原稿を探しているのでしょう? わたしは現時点では容疑者のようですから。袋の中を確認したいというのであれば、拒否はしません」
「あ、ああ。そういうこと。大丈夫、話を聞きたかっただけだし、うん。お気持ちだけで」
「そうですか」
 容疑者、という言葉に僕は興味を惹かれた。一般的な女子高校生が使う言葉にしては随分と重苦しい。少なくとも、朝の教室の喧騒の中で「容疑者」なんて言葉を聞いたことはなかった。
 僕は秋空さんが教室で読んでいた本を思い出した。
「一の悲劇」
 法月綸太郎が書いたその本は、本格推理小説のはずだった。
「……秋空さんって、推理小説とか好きなの?」
 ただの憶測からの発言だったけれど、あながち外れてはいなかったらしい。
 能面のように動かなかった表情が少しだけ緩んだ。唇をかすかに上げ、秋空さんが頷く。
「はい。本であればなんでも読みますが、推理小説が一番好きです。あなたも本を読まれるんですか?」
「ちょっとだけね。推理小説は最近読み始めたばかりだけど」
「そうですか」
 秋空さんがそれと分からないくらいかすかに微笑んだ。それだけだというのに、彼女の周りの空気さえ移り変わったように見える。硬く澄んでいたものが柔らかくなった感じ。背が小さいせいか、微笑むとその顔はずっと幼く見えた。けれどそれはほんの僅かな間だけの変化で、彼女の顔はまたすぐ無感情になる。
 途切れた会話の残り香も消えて、保健室の中に静かな沈黙が漂った。
 保険医の先生はどこかに出かけているのだろう。秋空さんと会話をするには願ってもいない環境だった。同時に、会話をしないでいるには最悪の環境でもあった。僕は女の子と和気藹々に会話できるほど話題の引き出しをもっていない。
 なにを話したらいいんだろう。いや、なにか話すべきなのだろうか。
 天気の話、趣味の話、好きな食べ物の話……駄目だ。お見合いじゃないんだから。
「ところで、原稿というのは?」
 盛り上がる話題のひとつも提供できない自分の不甲斐なさと向き合っていると、秋空さんが平坦な口調で言った。そのおかげで気まずい沈黙がなくなった。まさか僕に気を使ってくれたわけじゃないだろうけど。
「えっと」
 どこまで話そうか。
 文芸部に所属していること。年に4回部誌を発行していること。締め切りが間近なこと。原稿とは、そのためのものだということ。
 文芸部の存在は実にマイナーである。まさか秋空さんが知っているわけもないだろう。少し悩んだけれど、僕はそのまま言うことにした。
「じゃあ、あなたが」
 しかし彼女は、少しだけ目を大きくさせて、そんなことを言った。あなたが。あなたが、なに?
「『星守る犬』、とても面白かったです」
「―――え?」
 思わず口が開いた。呆けていたし、心臓もちょっと止まったかもしれなかった。秋空さんが言ったことを理解できなかったし、むしろ理解したくなかった。
 星守る犬といえば、前回の部誌に載せた短編である。もちろん、僕が書いた。
 聞き間違いじゃないだろうかと祈りながら秋空さんの顔を確かめるけれど、端整な顔立ちが静かにこちらを見上げているだけだった。
「読んだの?」
 ちょっと声が震えた。
「はい」
 しっかりと頷かれる。
 こんな可愛い子に真っ向から「あなたの小説を読みました」とか言われてしまい、僕はもう死にたくなった。心の準備もできていなかったので、余計に衝撃が大きかった。ああ、もう……ああ……。なんてこった。自分の書いたものを知っている人と知り合いになってしまった。
「それじゃ、忘れてください」
 空ろに笑いながら僕が言うと、秋空さんはこくんと首を傾げた。頭の後ろで細長い2つの尻尾が揺れた。
「わたしは、好きですけど」
 好きですけど。
 その言葉が突き刺さった。ぐさっと。本当に。
 自分が書いたものを褒められるのは、そりゃ嬉しい。これでも苦労しているし、時間も掛かっている。それを読んでくれた人が少しでもおもしろいと思ってくれたら良いと思っている。けれど、それを真っ向から言われるというのは、もちろん嬉しいけれど、それ以上に恥ずかしかった。
 嬉しくて、恥ずかしい。とても照れくさい。
 こういう心理状態を表すのに実に相応しい言葉が国語辞典には載っている。面映い、だ。僕は今、とても面映い。
 まさか面と向かって言われるとは思ってもいなかった。
「……ありがとう」
 結局、それだけを言って、僕は俯いた。
 小学生じゃないんだから、と自分でも思わずにはいられなかった。これくらい笑って済ませばいいのに。恭介ならにこりと微笑むくらいはやってのけるだろう。ああ、それくらいはやるはずだ。ついでとばかりにメルアドを聞いたりもするだろう。僕にはもちろん、そんなことは出来なかった。
 そこでやっぱり思うのである。僕って、不甲斐ない。
 そんな僕を、きょとんとした秋空さんが見つめていた。

 4

 たとえば、ここにひとつの謎があるとしよう。誰もが解けないような複雑で難解な謎だ。
 誰もが諦めるようなそれに取り組んだ主人公は、驚くような閃きと論理的思考により、やがてそれを見事に解き明かしてみせる。その時から、主人公はこう呼ばれるのだ。名探偵と。
 もしかすると僕もそうなれるかもしれないと思って、必死に頭を捻っていた。
 犯人はいるのかいないのか。いるとすれば誰なのか。そしてどうして原稿なんて盗んだのか。
 結局、秋空さんからも決定的な話は聞くことができなかった。というか、僕がしたことと言えば秋空さんと世間話をして、面白いと言われてしまった恥ずかしさに悶えていただけである。どうしようもないな。
 とりあえずそこは開き直ることにして、僕は灰色の脳細胞に頼った。
 今までの情報、現場の状況、記憶の中にある台詞と姿。それらを組み合わせ、こね回していく。
 やがて点と点が線で繋がり始め、そして―――
「そうか! そうだったんだ!」
 と閃けば小説によくいる名探偵の感じなのだけれど、もちろんそんなことはなかった。人生そんなに都合よくできていないし、自分の脳みそはそこまで飛躍できるほど優れてはいない。現実は厳しいのである。
 頭の中で考えがあちこちに飛び跳ねるもどかしさに、僕は頭をがしがしと掻いた。情報は集約しないし、新しい閃きも驚くような事実も出てこない。
 考えに考えた結果わかったのは、僕は名探偵ではなかったという揺るぎない事実だけだった。
 そりゃそうである。
 創作物の中の名探偵は、言ってしまえば作者の代弁者に過ぎない。台本を渡され、この通りに推理しろと事前に打ち合わせがあるようなものだ。どんなに困難で複雑な謎であったとしても、最後には必ず真実に辿りつける。けれど、僕らは違う。現実はフィクションほど接合性のある事件ばかりではないのだから。
「はあ」
 深く息を吐く。脳の中に詰まった情報で頭痛がしてきそうだったので、ひとまず放棄することにした。
 保健室から階段を上がり、渡り廊下を通り、北棟3階の奥。そこに図書室はあった。ドアの前を通り過ぎるときにちらと室内を覗いてみたけれど、やはり人はいなかった。カウンターに座った白髪頭の司書のおじさんが、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
 この小さな図書室は、学園創設以来から存在していた。時代と共に改築され、新校舎ができあがっても、ずっとここにあるらしい。生徒の教室が新棟に移り、ここまで来て本を借りる生徒は少なくなった。そして5年ほど前、新棟に新しく図書室が出来た。それでも、何故かこの図書室はそのままだった。
 生徒が来ることがめっきりなくなった図書室は、やはり少し物寂しい。
 図書室を曲がった先、「書庫」と古びたプレートが掛けられているドアを開く。
 昨日のものとどこか似た雰囲気の風が僕の横を流れていった。窓が開いていた。カーテンが風を孕み、降り注ぐ黄色い光が床の上をゆらゆらと移ってゆく。
 並んだ本棚の向こうに置かれた長机に、パイプ椅子。その一角にこよりが座っていた。今は懐かしいルービックキューブを、かちかちと回している。
 開け放たれた窓から吹き込む風に、こよりの前髪が揺れていた。光に透けるような薄い色の髪。静寂さえ持て余すようなこの場所で、平然と一人で座っているその姿に違和感はなかった。孤独でいることにも、ひとりで佇むことにも慣れきった姿だった。
 そして、こより自身もそれがいいと言う。
 ひとりが気楽だと。
 確かにそうなのだろう。ひとりでいる時のこよりの姿に無理はないし、それを楽しんでいるようにすら思える。
 けれど僕はその姿をあまり気に入っていなかった。なんというか、と僕は言葉を探す。自分の感情のために、文章を生み出そうとする。やがて、それを諦める。いつもその言葉は見つからない。僕の中にある辞書には載っていないのか、あるいは僕自身がそれをまだ理解していないのだろう。
 わざと音を立てるようにして、僕は机の上に鞄を置いた。
 時間は既に放課後で、恭介のやつは早々に帰ってしまっていた。
 向かいの席に腰掛けた僕をちらりと見てから、こよりは再びルービックキューブに視線を戻した。
「それで?」
 しばらくカチカチとルービックキューブをやっていたこよりがそう切り出した。その顔はどこか飽き飽きとしていた。めんどくさいけれどやらなきゃならないことをするような、そんな顔。ため息さえ聞こえてきそうだ。
「えっと、何がかな」
「原稿、無くなったんでしょ。どうなったわけ」
 ルービックキューブから目を離さずにこよりが言う。僕は驚いていた。
「なんで知ってるの?」
「高木から聞いた」
「……恭介ね。納得した」
「どうでもいいけど、高木っていつもあんな風なの?」
「あんな風ってどんな風?」
「ナンパ。距離が近い。携帯のアドレスを知りたがる。テンションが高い。うざい」
 辛辣だった。あまりに辛辣すぎて、同情で泣けてきそうだった。恭介の評価は、こよりの中で恐ろしいほど低いらしい。しかも、きっとこよりは恭介にも直接そう言ったのだろう。心底そう思ったのであれば、遠慮なく言う。誰が相手であったとしても、たとえそれが原因で絶縁することになっても、こよりは言う。そういうやつだ。
 恭介、落ち込んでないかな。
 ちょっと心配になった。
「原稿は?」
 ちらりと僕を見て、こよりが言った。
「まあ、うん。まだ見つかってない。これと言って話に進展もなし」
「秋空って子に話を聞きに行ったんじゃなかったの?」
 そこまで聞いたのか。お喋り恭介め。
「確かに聞きに行ったけど、特に目ぼしい情報はなかったよ。秋空さんの話では忘れ物を取りに行って、それですぐに教室を出たってさ。その時に他の人の姿は見ていないし、僕が原稿を持っていたってことも知らなかったらしい」
 返事はなかった。
 こよりはルービックキューブを気だるげな動きで回している。カチカチと動くそれは随分と古くて、色が少し剥げかかっていた。ほっそりとした指が器用に動くのを眺めながら、僕はぼんやりと考えた。
 誰が何のために僕の原稿を。
 けれどやっぱり答えは転がっていなくて、それを見つけ出すのも大変そうだった。考えることも面倒になった僕は机に突っ伏した。
 このまま寝ちゃおうかな。
 ああでも、原稿を書き上げないと文芸部が廃部になってしまう。ネットブックを開いて続きを書かないといけない。でもそれもなあ。
 うもうもと唸っていると、僕の向かいでカチッと音が鳴って、そして途切れた。顔を上げると、こよりがルービックキューブを机に置くところだった。6面全部の色が揃っている。こよりはパズルが得意で、ああいうパズルゲームは大体クリアしているのだった。知恵の輪とか、スライドパズルとか、そういうの。だからルービックキューブが完成していたところで、今さら驚きはしない。
 こよりが背もたれに体重を預けた。ギシっとパイプ椅子が軋む。はあ、と嘆息して、こよりが面倒くさそうに口を開く。
「犯人、分かったわよ」
 ――はい?
 首を傾げた。意味がわからなかったというよりは、あまりに予想外だったからだ。こよりがそういうことに興味を持つことが。
 思わずこよりの顔を見つめ返すけれど、いつも通りの愛想のない顔だった。
「これをやってる間に考えてたんだけど、それで閃いたわ」
 こよりが指差したのは机上のルービックキューブだった。ルービックキューブをやりながら謎を解く? それはどこの名探偵さん?
 呆気に取られている僕には構わず、こよりが口を開いた。
「この謎を解くために考えるべきは、犯人は何を目的としたか、つまりあんたの原稿を盗んだのは何のためだったのかということ。愉快犯の可能性は捨てきれないけど、可能性は低いわね。愉快犯がやるにしては地味過ぎるし、普通に考えれば原稿を盗んだところで別に愉快でもなんでもない。所詮はただの紙だもの」
「あ、え? こより? なんでいきなり饒舌になってるわけ? そんなキャラだっけ?」
「いいから黙って聞きなさい。膝の皿叩き割るわよ」
「はい」
「そもそも、人間の行動は突発的なものじゃない。何かしらの信念が先にあるわ。それが単なる妄想だとしてもね。つまり、被害者はあんたでなければならなかった。そこには何かしらの理由が存在するはずよ。それが、どんなに下らないものであってもね」
 そこで、何故かこよりはため息をついた。
 右手で髪を掻き上げ、気だるげに推理を続ける。
「ではそれを行ったのは誰か、という問題が提起するわ。現時点で容疑者は2人。だから考え得る可能性は3つよ。犯人は高木か、秋空か、それ以外か。明確な証拠だとか証言の決め手はないし、全員にアリバイはない。犯行は誰にでも出来た。じゃあ、現時点でこれ以上条件を絞り込むことは不可能なのか? いいえ、違うわ」
 饒舌だった。こよりはすごく饒舌だった。ここまで長台詞を話すこよりを、僕は今まで見たことがない。
 呆気に取られる僕に一瞥もくれず、こよりは早口で話す。
「犯行には何かしらの信念があった、被害者はあんたでなければならなかった。その仮定から考えれば、新しい条件が出てくる。あんたのことを知っている人間、そういう条件がね。あんたのことを知っている人間が、さらに言えば教室でのあんたの机の位置を知っている人間が、なにかしらの信念の下に原稿を盗んだ。そう考えるのが自然でしょ?」
「はあ……そりゃ、確かに」
「ここで改めて容疑者をあぶり出して見ましょうか。まず秋空は除外されるわね。あんたとは大した関わり合いがないのだから、動機そのものがない。それ以外の人間が犯人という可能性はひとまず保留ね、範囲が広すぎるから。そして高木。彼はあんたとそれなりに深い関わりがある。あんたの机の位置も確実に知っている。けれど、動機はない。いえ、ないというのはおかしいわね。動機が今はわからないと言い換えましょうか」
 その言い方に、僕は少しひっかかりを覚えた。いや、こよりがべらべらと小説の名探偵みたいな推理をし始めたことにも随分とひっかかっているのだけれどそれはまあ置いておくとして。
「その言い方だと、まるで恭介が犯人とでも言いたげだね」
「そうね」
 こよりは頷きもしない。ただ、瞼を伏せて、面倒くさそうな声音で、言った。
「犯人は高木よ」
 確信に満ち溢れた声。迷いすらなく、それが真実であると言い切る声。一分のよどみすらなく断言されたことに、僕は息を呑んだ。
 まさかこよりは、何か僕が気付かなかったことを気付いたのだろうか。僕が見落とした証拠を、決定的な決め手を、見出したのだろうか。
 無意識のうちにごくりと唾を飲み込んで、僕はおずおずと口を開いた。知らず、緊張している。
「それは、どうして?」
 こよりは無言で息を吸った。細身の肩が上がり、吐き出される言葉をそこに留めた。こよりの瞼がゆっくりと開いて、瑠璃色の深い瞳が僕を射抜いた。そして、こよりが言った。
「知らないわよ」
 ……え?
「し、知らない?」
 聞き間違いだろうか。今までの論理的推理を全てをぶち壊すような魔法の言葉が聞こえた気がしたのだけれど。
 しかしもちろん聞き間違いではなかった。
 こよりは僕の眼前で大きくため息をついて、再びルービックキューブを手に取った。
「ああ、馬鹿らしい。なにやってんだか」
 そんなことまで言っている。
 呆然とする僕。
「……あの、こよりさん? 話が飲み込めないんですが。僕、置いてけぼりなんですが」
「そんなこと知らないわよ。後は高木にでも聞いて」
 もう本当に意味がわからなかった。こよりはやけに饒舌に名探偵をやったかと思えば「知らないわよ」とか言うし、おまけに後は恭介に聞け、である。何だよもう。
 こよりは本当にもう何も言わないつもりらしく、僕を完全無視の体勢だった。
 仕方なく、僕は携帯の電源を入れた。アドレス帳から恭介を選び、電話をかける。ワンコールで出た。
『よお、祐樹。原稿は見つかったか?』
 やけに陽気な声。どこか嘘っぽい。
「ねえ恭介。今さ、原稿がなくなったことについてこよりの推理を聞いたんだけど」
『―――っ』
 電話の向こうで、息を呑む音がした。あれ、まさか、と思いながら、僕は自分の声を確かめるように続ける。
「あの、さ。こよりが言うには、犯人……恭介なんだって」
 返事はなかった。
 それでも、しばらく待っていた。
 恭介はきっと馬鹿馬鹿しくて何も言えなかったのだろう。だって言っていたじゃないか。「おれが盗んでどうするんだよ」って。その通りだ。恭介が盗んだって仕方ない。だからきっと、恭介は笑って言うだろう。「馬鹿らしい。なんでおれが犯人なんだよ。やっぱりおれってこよりちゃんに嫌われてるのかな」ってさ。そうさ、きっとそう言うはずだ。
 けれど、恭介から返ってきたのは、たった一言だけだった。
『……あーあ、バレちまったか』
 言葉を失う。
『ちぇっ、やるなあ、こよりちゃん。まさかおれにたどり着くなんて。まるで名探偵じゃねえか』
「どういう、こと?」
『そのまんまだよ。おれがお前の原稿を盗んだ。それだけだ」
 恭介は平然と言った。その声は平坦で、いつも恭介のような、爛漫さが感じられなかった。
 頭の中をぐるぐると言葉が回っていた。恭介の言葉と、僕が吐き出そうとする言葉が、交じり合ってぐちゃぐちゃになっていた。何かを言おうとして、でも何を言えばいいのかわからなくて、結局、取り出せたのはひとつだけだった。
「どうして……?」
 少し、声が震えていた。
『気まぐれだよ。誰かを困らせてみたかっただけさ。たまたまお前の原稿に目がいって、それを盗んだ』
「そんな」
『悪いな、祐樹。おれってこんな奴なんだよ、ほんとはさ』
 へへ、と苦笑する声が聞こえる。
 そんな、なんで恭介が。恭介はそんなことをするはずがない。そう思ったけれど、言葉は出てこなかった。何と言えばいいのかさえ分からなかった。
 少しの間、沈黙があった。
 やがて、恭介の声。
『なあ、祐樹』
「……なんだよ」
『お前が言ってたミステリの条件ってさ、何だっけ?』
 訊かれた意味が分からなかった。なんでそんなことを訊くのだろう。けれど、それすらも今は、どうでもよかった。
 僕は投げやりに言う。
「魅力的な謎、論理的な推理、意外などんでん返し」
『おお、それそれ』
 だから、それがどうしたんだよ。携帯を握る手に、ぎしりと力が入った。
『それさ、ひとつ足りねえと思うんだよな。一番重要で、一番わくわくするもんだよ』
 僕は答えなかった。それでも、恭介は言った。
『名探偵だよ。謎を解き明かす、すげえ名探偵。さらにかわいい女の子だったら言うことねえよな』
「それが、なに?」
 意味がわからなくて、僕はイラついた口調で言う。うはは、と恭介が笑う。
『今、目の前にいるだろ、かわいい名探偵が』
 視線を上げると、そこにはこよりがいた。かわいい、名探偵。
「……いるね」
『つまり、魅力的な謎、論理的な推理、かわいい名探偵までは揃ったわけだ。あとは、何だ、ああ、そうそう。意外などんでん返しな』
「だから?」
『なあ、祐樹。原稿ってどこにあると思う?』
「原稿? そんなの知らないよ。恭介が持っていったんだろ?」
『驚くようなところにあるぜ』
 はあ? 驚くようなところ?
 そう言おうとして、こよりが腰を屈めている姿が目に入った。床に置いた鞄をがさがさと探り、そして――
「……はあ?」
 こよりは手にしたものを机の上に置いた。それは紛れもなく、僕の原稿だった。
 なんでこよりの鞄の中に?
 混乱で言葉を失っていた僕の耳に、恭介の愉快そうな声が聞こえた。
『そして今、意外などんでん返しが出てきた。つまりどういうことか分かるか? これでミステリの条件全部を満たしたってことだよ。なあ、祐樹』
 恭介が言う。
『これって、小説のネタになるよな?』
 僕は、また言葉を失った。
 小説のネタにって。そんなことのために原稿を盗んだのか?
 僕はふと朝の会話を思い出していた。文芸部が廃部しそうだと言って、間に合いそうにないと言って、そして、ネタが無いと言った。恭介はもしかして、そのために?
『いやあ、おれがんばった! すげえがんばった! めちゃくちゃ考えたんだぜ? 体育の授業中に原稿を隠すまでは思いついたんだけど、そっからどうしようかと思ってな。おれが犯人だからおれが推理するわけにもいかねえしさ。どうやってこれ解決しようかと。それで、こよりちゃんに頼ることにしたんだよ。すげえ面倒くさそうな目で見られたけど、良かったな! これで万事解決だうはは!』
 つまり、だ。
 全ては恭介が仕組んだことだったらしい。
 僕の原稿が無くなったのも、こよりを打ち合わせ済みの名探偵役として登場させたのも、全部。さっきの2時間サスペンスばりの自白も、恭介の演技だったのだ。
「……恭介」
『ん? なんだ? 声が震えてるぜ祐樹。もしかして感動しちゃったか? いや、いいんだよお礼なんて、おれたち友達だろ!』
 僕はこの思いを恭介にちゃんと伝えることにした。言っておかないと、駄目だ。
 溢れる思いをそのままに、僕は言った。
「鼻の穴にわさびつっこんでくたばれ」
 僕は携帯の電源を切った。
 ああ、もう……ああ、もう……。
 うろたえていた僕が馬鹿みたいじゃないか。なんだよこれ、なんだよこのドッキリ。秋空さんへの事情聴取とか完全に無駄だよね。恭介が教室に戻ったときに偶然居合わせたせいであらぬ疑いをかけちゃっただけだよね。ああ、謝りにいかないと……うわあ。
 さっきまでの自分を思い出して、僕は崩れ落ちた。
 机に伏せたまま悶えてから、僕は顔を上げて、こよりを見た。
 相変わらず、こよりはルービックキューブをかちかちと回している。まさかこよりまでグルだったとは。だからあんなに面倒くさそうだったのか。くそう、どうせなら言ってくれれば良かったのに。僕ひとりで馬鹿みたいじゃないか。
 恨めしげな目で見つめていると、こよりが僕を見た。視線が合う。
「……なによ、その目は」
「べっつにぃ。こよりもこんな悪戯ができるんだなあと思っただけ」
「悪戯じゃないわよ。そもそも、あんたがネタがないネタがないって言ってたからでしょ」
 それに、とこよりが言う。
「あれだけ頼まれたらやるしかなかったのよ。うざったくて仕方ないし。あんたね、今度からはひとりでやるように高木に言っときなさいよ」
「あ、うん」
 頼まれた、か。
 恭介が、こよりに頼んだ。こよりにうんと言わせるのは、そりゃ大変だっただろう。
 僕だけ恥ずかしい思いをしたのはあれだけれど、それでもきっと恭介なりに考えてやってくれたことなのだろう。そりゃもちろん釈然とはしないけれど、それでも、うん。ちょっとは、感謝していた。
 僕は携帯の画面を見つめた。掛けなおそうか、少し迷う。そして結局、今はやめておく事にした。
「いいの?」
 こよりが訊いてくる。僕は笑って言う。
「後で家にでも行くよ。いろいろとお礼をしなきゃならないから」
「ふーん」
 そして僕は鞄の中からネットブックを取り出した。電源を入れると、画面には書きかけのテキストエディタが開かれている。僕はそれを白紙にして、新しく文章を打ち込んだ。
「小説ができるまで」
 せっかく恭介が考えてくれたネタだ。使わせもらうことにしよう。
 今日あったことをそのまま書けばいい。愛想のない猫のような幼なじみと、気はいいけれどどこかバカな親友と、無表情な女の子、そして僕。登場人物はそれくらいだ。物語だってミステリとは呼べないような、しょうもない話だ。けれど、それもまあいいんじゃないかと思う。
 僕はキーの上に指を置いた。
 物語を締めくくる最後の文章はもう決まっていた。
 今日も文芸部は、そんな風にひっそりと活動している。
モクジ

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