モクジ

  夕日影  


 母が死んだことが悲しくないと言えば嘘になるけれど、溢れる涙は期待できそうになかった。
 長い黒髪を縛って料理をする母の背中も、笑うと右頬にだけ浮かぶ笑窪も、記憶には鮮明に残っていた。その姿を見ることは二度とないということも理解していた。それでも、私の中に満ちている感情は胸を締め付けるような悲愁ではなく、ぽっかりと穴が開いたような喪失感だけだった。確かにあったものがなくなってしまったことを教えてくれる、大きな喪失感。
 もうすぐ日が暮れようとしていた。
 山間に半分ほど姿を隠した夕日から伸びる光が、いくつもの無骨な墓石の影を作っていた。納骨を終えてから今まで、母が眠る墓の前に立っていたけれど、その行動にどれほどの意味があるのかは分からなかった。そこに意味を探すことさえ無意味かもしれない。
 帰ろう。家にはもう誰もいないけれど。
 踵を返すと、そこには一匹の犬がいた。黄昏の影に溶けるように黒く、大きな犬だった。不思議と知性を感じさせる瞳でこちらをじっと見つめている。
「悲しいか?」
 犬が喋った。犬というのは随分と渋い声で話すんだなと、私は思った。
「べつに。悲しんだってどうにもならないから」
「そうか」
 大きな体をのそりと持ち上げ、黒い犬はひたひたとこちらに歩み寄ってきた。小さな違和感に首を傾げて、ふと気づく。地面に伸びているはずの犬の影がない。
「実は、おれは死神なんだ」
 犬の一人称はおれなんだなと、私は思った。
 自称死神の犬は、それからも私の傍にいた。ペットなのだろうか。ペットなのだろう。ペットの世話は飼い主がしなければいけないらしい。
 だからご飯に味噌汁をかけたものをお皿にいれて差し出してみると、犬は渋い顔をした。「初めての手料理がこれか」とぶつぶついいながら、それでも犬ははぐはぐとご飯を食べた。死神もご飯を食べるらしい。
 ご飯の次は散歩だろう。犬は散歩をしないといけないと聞いたことがあった。
 ペット用品店で黒い首輪とリードを買ってきた。差し出してみると、犬は渋い顔をした。訥々と言い訳をしていたけれど、要するに首輪とリードは嫌らしい。仕方ないのでそのまま散歩に行った。犬はいろいろなことを知っていた。路傍を彩る草花の名前や、食べられる雑草を教えてくれた。川原に着いたので、私はポケットからボールを取り出した。犬は渋い顔をした。テレビで見た光景の通り、私はボールを投げた。放物線を描いて飛んでいくボールを、私たちはぼんやりと目で追った。
「行かないの?」
 私が訊くと、犬は勘弁してくれと首を振った。
「じゃあしょうがないね」
 ふたりでボールを取りに行った。
 夜になって、犬の寝床はどこにしようかと考えた。普通は犬小屋というところらしいけれど、うちにそんなものはない。
「どこで寝たい?」
「どこでも構わないさ。雨露を凌げればね」
「つまり室内がいいんだね」
「そういうことだ」
 居間に毛布を敷いて、そこで寝かすことにした。
 私は自分の部屋のベッドに潜り込んだ。しんとした静寂がいつもよりうるさかった。暗闇が耳元で唸っているように思えた。どうにも眠れないので、私はベッドから出ることにした。枕を引きずって居間に行くと、毛布の上に丸くなった黒い塊がある。その横に枕を置いて、私も毛布の上に寝転んだ。犬に抱きついてみると、意外にさらさらとした手触りと、暖かな温もりを感じた。
「眠れないのか?」
 犬は起きていた。
「人肌恋しい気分」
「そうか。犬で悪かったな」
「うん。だから代用品」
 犬の鼓動を聞きながら、私は眠りについた。
 それからしばらく、私と犬の共同生活が続いた。犬は朝が弱くて、玉ねぎが嫌いで、卵料理が好きだということを知った。一度、お風呂に入れようとしたけれど、犬は頑なに首を振った。
「でも汚い」
「汚くない。死神は汚れないんだ」
「屁理屈」
「屁理屈じゃない。事実だ」
 犬は変なところで頑固だった。
 ある日、叔母さんがやって来た。叔母さんは早口でいろいろなことを喋った。難しいことは分からなかったけれど、これからは叔母さんと一緒に住むことになるみたいだ。
 叔母さんには黒い犬が見えていないようだった。いつも私の傍にいる犬には見向きもせず、私のことをよく平手で叩いた。最初の頃は優しい人だったけれど、本質はこちらのようだった。まさか、母の遺産目当てで私を引き取ったと面と向かって言われるとは思わなかった。そういうことは隠しておくものじゃないだろうか。
 ひと月もしないうちに、我が家は随分と雰囲気が変わってしまった。高そうなテーブルやソファが居座っていて、いつの間にか大きなテレビがあった。叔母さんは高そうなだけの趣味の悪い服を着て、太い指には大きな宝石のついた指輪をしていた。
 叔母さんはいつも外食だった。冷蔵庫にはほとんどなにも入っていないので、私は食べるものにも頭を捻らせるようになった。母からもらっていたお小遣いはまだ残っているけれど、先を考えるとあまり無駄遣いはできそうにないと思っていたし、その予想は間違いでもないだろう。
 結局、ご飯を炊いて、その上に味噌汁をかけて食べることにした。味噌汁に具がないので少し寂しいけれど、悪くは無い。
 いつかのようにお皿にいれて犬に差し出すと、犬は渋い顔をして言う。
「もう少し待て。もう少しだ」
 なんのことかは分からないけれど、待てというのであれば待とうと思った。待つことには慣れている。
 それからしばらくして、私が学校から帰ってくると、私の部屋のものがなくなっていた。勉強机も、クローゼットも、ベットも。すっきりしてしまった部屋を見回して、明日の教科書はどうしようと思った。
 叔母さんに訊いてみると、邪魔だったから捨てたと言われた。それから、来週にはここを引越すと言われた。もっと広くて住みやすい家に引っ越すのだと。母との思い出が強いここを離れるのは嫌だったけれど、それよりも気になることがあった。犬と一緒に寝ていた毛布はどこだろう。叔母がこの家に来てから、私は自室に敷いた毛布の上で犬と一緒に寝ていた。他のものはどうでもいいけれど、あの毛布は名残惜しい。
 近所のゴミ捨て場を探してみたけれど、毛布は見つからなかった。犬も見つからない。いつもは私の部屋で丸まっているのだけれど、もしかしたら毛布と一緒に捨てられてしまったのだろうか。
 小さな焦燥感に追われながら、私は駆け足で探し回った。その頃には、毛布ではなくて犬を探していた。いつも私の傍にいてくれた、黒い犬。
 誰もいない川原で、私はようやく犬を見つけた。
「やっとだ。もう我慢しなくてもいい」
 世界が限りなく二色に別れる瞬間に、影のないその犬の姿はぽっかりと浮き上がって見えた。犬の言っていることはよく分からなかったけれど、とりあえず私は抱きついておいた。すべすべとした毛並みと、暖かい鼓動が聞こえた。それだけで十分だった。
 翌日。居間で叔母さんが倒れているのを見つけた。心臓発作で死んだらしい。人は随分と呆気なく死ぬんだなと、私は思った。
 それからはまた、犬との生活が続いた。相変わらず犬は朝が弱くて、玉ねぎが嫌いで、卵料理が好きだった。私は学校であったことを話し、一緒にテレビを見て、くだらないことで笑いあった。
 気づかないうちに眠っていたらしい。時計を見ると時刻はもう夕方だった。部屋の中には犬の姿がない。寝ぼけ眼で玄関に降りてみると、外に出ようとする犬の後姿を見つけた。
「どこかに行くの?」
 私が声をかけると、犬はつまみ食いが見つかった子供みたいな顔をして振り向いた。
「ああ。そろそろ帰らないといけないんだ」
「どこに?」
「地獄だ」
「死神だから?」
「ああ、死神だから」
 そっか、と私は頷いた。悲しくないと言えば嘘になるけれど、溢れる涙は期待できそうになかった。
「さよなら、お父さん」
 犬は渋い顔で笑った。
 気付いたときには、そこに見慣れた黒い犬の姿はなかった。大きな体で、少しだけ猫背で、小さい頃に写真で見たきりの父の姿が、そこにあった。
「悲しいか?」
「べつに。悲しんだってどうにもならないから」
「そうか」
 大きな体をのそりと揺らして、お父さんはこちらに歩み寄った。手を伸ばし、私の頭をくしゃりと撫でる。お父さんの手はこんなに大きいんだなと、私は思った。
「元気でな」
 そう言って玄関から出て行ったお父さんは、夕日影に溶けるようにいなくなった。
モクジ

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